森の扉をくぐって食堂に戻った颯太の心には、まだリリアとの温かい時間の余韻が残っていた。久しぶりに料理を作る楽しさを思い出した喜びが、胸の奥でひっそりと燃えている。それは小さな炎だったが、確実に熱を帯びていた。
「よし、明日からまた頑張ろう」
颯太は小さくつぶやきながら、食堂の電気を消そうと手を伸ばした。その時だった。
ドン、ドン、ドンッ。
まるで太鼓を叩くような重い音が食堂の扉を震わせた。颯太の手が止まる。こんな夜遅くに客が来るなんて。しかも、この音の重さは普通じゃない。
「はい、どちら様でしょうか」
恐る恐る扉に近づいて声をかけた瞬間、扉が軋み音を立てて開いた。いや、開いたというより、押し開かれたという表現が正しかった。
颯太の目の前に現れたのは、想像を絶する光景だった。
巨大な頭部が食堂の入り口を埋め尽くしていた。深い緑色の鱗に覆われ、琥珀色の瞳が暗闇の中で金色に光っている。その瞳は颯太を見つめていた。
「ド、ドラゴン……」
颯太の声は震えていた。足が竦んで動けない。これは夢なのか。それとも現実なのか。頭の中が真っ白になる。
巨大な頭部がゆっくりと動いた。そして、低く響く声が食堂に響く。
「人間よ、恐れることはない。我は古代ドラゴンのグランド。貴様に害を与えるつもりはない」
声は確かに威厳に満ちていたが、不思議と敌意は感じられなかった。それでも颯太の心臓は激しく鼓動していた。
「あ、あの……何か、ご用でしょうか」
震え声で尋ねる颯太に、グランドは少し困ったような表情を見せた。
「実は……」
古代ドラゴンが言いよどむ姿は、なんとも奇妙だった。颯太の恐怖心が少しだけ和らぐ。
「先ほどから、この方角から実に良い匂いが漂ってきているのだ。それで、つい……」
「匂い、ですか?」
颯太は首をかしげた。そういえば、さっきリリアと一緒に野菜炒めを作った時の匂いが、まだ食堂に残っているかもしれない。
「そうだ。我は長い間生きているが、これほど心をくすぐる香りは初めてだった。一体何なのか、確かめずにはいられなくなった」
グランドの瞳に、期待の光が宿っているのが分かった。颯太は思わず笑いそうになる。古代ドラゴンが料理の匂いに釣られてやってきたなんて、なんとも微笑ましい話だった。
「それでしたら、中へどうぞ……って、入れませんね」
食堂の入り口は、グランドの頭部だけで完全に塞がっていた。体全体が入るなんて到底無理だ。
「心配無用だ」
グランドがそう言うと、その巨体が光に包まれた。まばゆい光の中で、ドラゴンの姿がみるみる小さくなっていく。光が収まった時、そこには人間大の小さなドラゴンが立っていた。
「変身魔法です。これなら問題ないでしょう」
小さくなったグランドは、それでもやはり威厳を保っていた。深緑の鱗は美しく輝き、琥珀の瞳は知性に溢れている。
「す、すごいですね。どうぞ、中へ」
颯太は慌てて道を開けた。グランドが食堂に入ってくると、空間全体に何か特別な気配が漂った。
「良い店構えだ。清潔で、料理に対する敬意を感じる」
グランドは食堂を見回しながら頷いた。その評価に、颯太は少し誇らしい気持ちになる。
「ありがとうございます。えっと、お食事をご希望でしょうか」
「ぜひお願いしたい。先ほどの匂いの正体を、この舌で確かめてみたい」
グランドがカウンター席に座ると、颯太は慌ててキッチンに向かった。しかし、何を作ればいいのか分からない。ドラゴンは一体何を食べるのだろうか。
「あの、グランドさん。何かお好みはありますか?」
「我は雑食だ。ただし、美味いものでなければ意味がない。貴様の得意料理を頼む」
得意料理。颯太の胸が少し痛んだ。以前なら迷わず答えられたのに、今は自信がない。でも、さっきリリアのために作った野菜炒めは上手くできた。あれなら……。
「分かりました。少々お待ちください」
颯太は気を取り直してキッチンに立った。冷蔵庫から野菜を取り出し、手際よく切り始める。さっきとは違う食材だが、基本は同じだ。
フライパンを熱し、油を敷く。野菜を炒める音が食堂に響いた。その音を聞きながら、グランドは興味深そうに見つめている。
「良い音だ。鍋を扱う手つきも見事だ」
「ありがとうございます」
グランドの称賛に、颯太の手に少しずつ自信が戻ってくる。野菜がちょうど良い具合に炒まったところで、醤油ベースの調味料で味を調えた。
「お待たせしました」
颯太は出来上がった野菜炒めをグランドの前に置いた。湯気と共に立ち上る香りに、グランドの瞳が輝く。
「これが、あの匂いの正体か」
グランドは慎重に箸を取った。ドラゴンが箸を使う姿も不思議だったが、その手つきは実に上品だった。
一口食べた瞬間、グランドの表情が変わった。驚きと感動が入り混じった表情で、颯太を見つめる。
「これは……素晴らしい」
「本当ですか?」
「間違いない。この味わい、この食感。野菜本来の甘みを最大限に引き出し、調味料との調和も完璧だ」
グランドは感動しながらも、着実に料理を平らげていく。その食べっぷりを見ていると、颯太の心に温かいものが広がった。
「実は我も、長い間様々な料理を食べてきた。だが、これほど心に響く料理は久しぶりだ」
「そんな、たかが野菜炒めですよ」
颯太は謙遜したが、グランドは首を振った。
「違う。料理に高級も庶民もない。大切なのは、作り手の心だ。貴様の料理には、確かな技術と共に、温かい心が込められている」
その言葉に、颯太の胸が熱くなった。
「ありがとうございます。実は最近、料理への自信を失っていたんです。でも、今日はリリアさんにも喜んでもらえて、グランドさんにも褒めていただけて……」
「リリア? 森の魔法使いの娘か?」
「ご存知なんですか?」
「もちろんだ。彼女の舌は確かだ。その彼女が認める料理なら、間違いはない」
グランドは最後の一口を大切そうに食べた。そして満足そうに息をつく。
「久しぶりに心から美味いと思える料理に出会えた。礼を言う」
「こちらこそ、喜んでいただけて嬉しいです」
颯太は心からそう思った。料理を作る喜び、それを食べてもらう喜び。忘れていた大切なものを、今夜また一つ思い出すことができた。
「ところで」グランドが急に真剣な表情になった。「貴様には、特別な力を感じる。ただの料理人ではないな」
「特別な力?」
颯太は首をかしげた。自分に何か特別なものがあるとは思えない。
「いずれ分かるだろう。だが今は、その力を信じて料理を続けることだ」
グランドは立ち上がると、颯太に深々と頭を下げた。
「今夜は素晴らしい料理をありがとう。また必ず来させてもらう」
「はい、いつでもお待ちしています」
グランドが食堂を出て行く後ろ姿を見送りながら、颯太は不思議な充実感に包まれていた。今夜は本当に特別な夜だった。リリアとの出会い、そしてグランドとの出会い。料理を通して、新しい世界が広がっていく予感がした。
しかし、グランドの最後の言葉が気になっていた。特別な力とは、一体何のことなのだろうか。