秋の朝日が青嵐食堂の窓を優しく染める中、颯太は祖母の日記を手に取った。昨夜から何度も読み返しているページには、グランドとの出会いが丁寧な筆跡で綴られている。だが気になるのは、日記の後半部分だった。文字が震えているように見える箇所がいくつかあり、明らかに何かを恐れているような記述が散見される。
「おはようございます、颯太さん」
リリアの声で我に返ると、いつの間にか異世界への扉が開いていた。彼女の後ろにはグランドとアーサーの姿も見える。
「おはよう、みんな。実は昨夜から気になることがあって」
颯太は日記を開き、問題の箇所を指し示した。昭和45年の記録には、こう書かれている。
『扉の向こうから、いつもと違う気配を感じる。グランドも警戒している。まるで別の世界から何かが覗いているような、そんな不安に襲われる日が続いている』
グランドの表情が一瞬にして険しくなった。
「そのことか。実は、わしもその頃の記憶がある。確かに異様な気配があったのだ」
「どういうことですか?」アーサーが身を乗り出した。
「アルカディア大陆以外にも、次元の狭間には無数の世界が存在する。その中には、我々とは相容れない世界もあるのだ」
颯太は日記のページを めくり続けた。すると、最後の方に血の気を失ったような記述を見つける。
『ついに現れた。黒い影のような存在が扉の向こうを通り過ぎて行く。グランドは『虚無の住人』と呼んでいる。この世界のすべてを無に帰そうとする者たちだと』
「虚無の住人?」
リリアが不安そうにグランドを見上げた。
「太古の昔から語り継がれている存在だ。彼らは生命や魔法、そして感情といったすべてのエネルギーを吸い取り、世界を虚無に変えてしまう。しかし数十年前、突然姿を消した。てっきり別次元に去ったものと思っていたが」
その時、食堂全体が微かに震えた。颯太たちは顔を見合わせる。
「地震?」咲良が台所から顔を出した。
「いえ、これは」グランドが立ち上がり、異世界への扉を見つめた。「扉が共鳴している」
扉の向こうから、冷たい風が吹き込んできた。それは今まで感じたことのない、生命力を奪うような寒気だった。
「皆さん、下がって」アーサーが剣に手をかける。
だが扉からは何も現れない。ただ、空気がどんどん重くなっていく。まるで希望という概念そのものが吸い取られているような感覚だった。
「颯太さん」リリアが震え声で言った。「森の精霊たちが怯えています。何か恐ろしいものが近づいていると」
颯太は祖母の日記を握りしめた。ページの間から、小さな紙片がひらりと落ちる。それは祖母の字で「料理の力を信じなさい」と書かれた小さなメモだった。
「そうか」颯太は立ち上がった。「祖母は知っていたんだ。だからこの日記を残したんだ」
「何を言っているんですか?」
「虚無の住人は、生命力や感情を奪う存在なんでしょう?だったら、その正反対のもので対抗するしかない」
颯太は台所に向かい、エプロンを身に着けた。
「料理は生命を繋ぐものです。素材の命をいただいて、それを新しい命に変える。そして食べる人の心と体に生命力を与える。それが料理人の役割だと、祖母から教わりました」
グランドの目に理解の光が宿った。
「なるほど。料理には確かに、生命を育む力がある。虚無に対抗できるのは、創造の力かもしれん」
しかし、扉の向こうからの異様な気配は強まるばかりだった。食堂の照明さえも暗くなり始める。
「でも相手は何者か分からない。どんな料理を作ればいいのでしょう?」リリアが不安を隠せずにいる。
颯太は祖母の日記を見返した。そして、ある記述に目を留める。
『料理とは愛である。どんな相手であっても、真心を込めた料理は必ず届く。たとえ相手が絶望に支配されていても、温かい料理は心の奥底に眠る希望を呼び覚ますはずだ』
「分からないなりに、やってみるしかない」颯太は決意を込めて言った。「もし虚無の住人が本当に感情を失ってしまった存在なら、僕たちにできることは一つだけです」
「何ですか?」
「温かさを思い出させてあげること。生きることの喜びを、もう一度感じてもらうことです」
アーサーが剣を鞘に収めた。
「なるほど。戦いではなく、救済ということですね」
「でも危険すぎます」咲良が心配そうに口を挟んだ。「相手がどんな存在か分からないのに」
「大丈夫だよ、咲良」颯太は妹に向かって微笑んだ。「僕一人でやるわけじゃない。みんなが一緒にいてくれるから」
グランドが頷いた。
「わしも颯太の料理を手伝おう。太古の記憶を辿れば、虚無の住人がまだ感情を持っていた頃のことを思い出せるかもしれん」
リリアも立ち上がった。
「私も森の恵みを分けてもらいます。生命力に満ちた食材があれば、きっと力になります」
アーサーが胸に手を当てた。
「聖騎士として、皆さんをお守りします」
その時、扉の向こうから低いうなり声のようなものが聞こえてきた。それは言葉というより、深い絶望を表現したような音だった。
「もう時間がありません」グランドが険しい顔で言った。「虚無の住人が本格的に動き出す前に、何とかしなければ」
颯太は深呼吸した。祖母の日記を胸に抱き、台所に向かう。
「みんな、準備はいい?今度の相手は今までとは全く違う。でも僕たちには料理がある。心を込めた料理があれば、きっと届くはずです」
食堂の空気が再び震えた。扉の向こうから漏れ出す虚無の気配は、確実に強くなっている。颯太たちに残された時間は、そう多くはなさそうだった。
「颯太さん」リリアが不安そうに呟いた。「もし、もし料理が通じなかったら」
「大丈夫」颯太は振り返り、仲間たちを見渡した。「僕たちがここまで来れたのは、料理の力があったからです。そして何より、みんなとの絆があったから。今度も信じています」
扉の向こうで、何かがざわめいている。虚無の住人の接近を告げるかのように、食堂全体に不穏な空気が漂い始めた。
颯太は手を握りしめ、これから始まる未知の戦いに向けて心を整えた。料理人として、そして仲間たちと共に歩んできた者として、この新たな脅威に立ち向かう覚悟を固めた。