シャルロット王女の視察を無事に終えた翌日、青嵐食堂にはいつもの穏やかな午後の陽射しが差し込んでいた。颯太は厨房で明日の授業の準備をしながら、昨日の出来事を振り返っていた。王女の満足そうな表情、生徒たちの輝く瞳、そして何より、この場所が本当に意味のあるものになっているという実感が胸を満たしていた。
「お疲れさま、颯太」
振り返ると、咲良が書類を抱えて厨房に入ってきた。普段よりも頬がほんのりと赤く、どこか浮き立つような雰囲気を纏っている。
「どうしたんだ、咲良? なんだかいつもと違うな」
颯太の問いに、咲良は慌てたように手をひらひらと振った。
「べ、別に何でもないわよ。ただ、その……実は今度、アルカディア大陸の研究施設を見学させてもらうことになったの」
「研究施設?」
「ええ。向こうの栄養学や食材の研究がどこまで進んでいるのか、管理栄養士として学んでおきたくて。それで、案内してくれる方がいらっしゃるの」
咲良の声は少し上ずっていた。颯太は妹の様子に首をかしげながらも、微笑んだ。
「それはいいな。きっと新しい発見があると思う」
その時、奥の扉からノックの音が聞こえた。咲良の表情がぱっと明るくなる。
「あ、お迎えが来たみたい」
扉を開けると、見慣れない青年が立っていた。アルカディア大陸の人らしく、淡い緑色の髪と知的な瞳を持つ、颯太と同世代ほどの男性だった。清潔な白い研究着を身に纏い、手には書類の入った革のカバンを持っている。
「初めまして、大河颯太さんですね。私、アルカディア王国魔法植物研究所の研究員、エドワード・グリーンフィールドと申します」
エドワードは丁寧に頭を下げた。その仕草は上品で、学者らしい落ち着きがあった。
「こちらこそ。妹がお世話になります」
「とんでもない。咲良さんの知識の深さには驚かされるばかりです。ぜひ、私たちの研究にも新しい風を吹き込んでいただきたいと思っているんです」
エドワードが咲良を見る眼差しには、明らかに尊敬以上の感情が込められていた。そして咲良も、普段は見せない恥じらいの表情を浮かべている。
颯太は瞬時に理解した。これは単なる学術交流ではない。
「それでは、行ってきます」
咲良は颯太に軽く手を振ると、エドワードと共に扉の向こうへと消えていった。残された颯太は、しばらくその場に立ち尽くしていた。
夕方、リリアがいつものように食堂を訪れた時、颯太は黙々と野菜を刻んでいた。その手つきがいつもより機械的で、何かを考え込んでいる様子だった。
「颯太さん、どうかしましたか?」
「ああ、リリア。いや、別に何でもないよ」
しかし、リリアの鋭い直感は颯太の心の動きを見逃さなかった。
「何か心配事があるんですね」
颯太は手を止めて、小さくため息をついた。
「実は、咲良のことなんだ。どうやら、いい人ができたみたいでね」
「咲良さんに恋人が? それは素敵なことじゃないですか」
「そうだな。本当はそう思わなくちゃいけないんだろうけど……」
颯太は包丁を置いて、窓の外を眺めた。夕陽が食堂を優しく包んでいる。
「咲良は小さい頃から、いつも俺のそばにいた。両親を早くに亡くして、俺が料理の道で忙しくしていた時も、文句一つ言わずに支えてくれた。管理栄養士になったのも、きっと俺のためだったんだと思う」
リリアは静かに颯太の話に耳を傾けていた。
「それなのに、俺は咲良の幸せについて、ちゃんと考えてあげられていたんだろうか。いつの間にか、咲良がいてくれることを当たり前に思っていたのかもしれない」
「颯太さん……」
「今日、咲良があんなに嬉しそうな顔をしているのを見て、改めて気づいたんだ。咲良にも、咲良自身の人生があるんだって。当たり前のことなのに、兄として、ちゃんと向き合えていなかった」
颯太の声には、自分への戒めと、妹への深い愛情が込められていた。
「でも、颯太さんが咲良さんを大切に思っているのは、誰が見ても分かりますよ。そして咲良さんも、颯太さんを心から慕っています。それは恋をしたからといって変わるものではないと思います」
リリアの優しい言葉に、颯太の表情が少し和らいだ。
「そうだな。咲良は賢い子だから、きっと自分で正しい道を選ぶだろう。俺がすべきことは、妹の選択を信じて、支えることなんだろうな」
その時、奥の扉が開いて、咲良とエドワードが戻ってきた。咲良の頬は興奮で赤く染まり、目は好奇心で輝いている。
「颯太、ただいま! すごかったの! 向こうの研究施設では、魔法の力で植物の栄養価を高める研究をしていて……」
咲良は堰を切ったように話し始めた。その生き生きとした表情を見て、颯太は心の底から安堵した。妹は本当に幸せそうだった。
「エドワードさんも一緒に夕食はいかがですか?」
颯太の提案に、エドワードは恐縮そうに頭を下げた。
「ありがとうございます。ぜひ、お願いします。実は、颯太さんのお料理のことは、こちらの世界でも評判になっているんです」
「そんな大げさな」
颯太は苦笑しながら、厨房に向かった。今日は特別な夕食にしよう。妹の新しい門出を祝う気持ちを込めて。
颯太が選んだのは、両世界の食材を使った創作料理だった。アルカディア大陸の魔法ハーブと現代日本の野菜を組み合わせたサラダ、現代の調理技術で仕上げた異世界の魚料理、そして締めくくりには、咲良の好物だった子供の頃の思い出のデザート。
料理を作りながら、颯太の心は次第に整理されていった。咲良の幸せを願う気持ち、兄として少し寂しい気持ち、そしてエドワードという男性への複雑な感情。それらすべてを受け入れて、料理に込めていく。
「できたよ」
颯太が運んできた料理を見て、エドワードは驚嘆の声を上げた。
「これは……まさに芸術ですね。香りだけで、使われている食材の特性が分かります」
「エドワードさんは研究者だから、舌も鋭いんですね」
咲良が誇らしげに言うと、エドワードは照れたように微笑んだ。
「咲良さんに教えていただいたおかげです。栄養学の観点から料理を見ることで、新しい発見がたくさんありました」
二人の自然な会話を見ていて、颯太は安心した。エドワードは真面目で誠実そうな人物だし、何より咲良を尊重している様子が伝わってくる。
「颯太さん、このデザートは……」
リリアが最後の一品を口にして、目を見開いた。それは颯太と咲良が子供の頃によく作っていた、素朴なプリンだった。だが、今日のそれには特別な思いが込められている。
「昔、咲良と一緒によく作ったんだ。材料を買うお金がない時でも、卵と牛乳があれば作れるから」
咲良の目がうっすらと潤んだ。
「覚えてくれてたのね。あの頃は大変だったけど、颯太が作ってくれるプリンが何よりのご馳走だった」
「俺も、咲良がいてくれたから頑張れた。今でもそれは変わらない」
颯太は妹を見つめて、穏やかに微笑んだ。
「でも、咲良にも咲良の人生がある。俺はそれを心から応援したいと思ってる」
エドワードが深く頭を下げた。
「颯太さん、ありがとうございます。咲良さんは本当に素晴らしい方です。僕も、彼女の夢や目標を大切にしていきたいと思っています」
「エドワード……」
咲良が感激の表情を浮かべた。
その夜、エドワードが帰った後、咲良は颯太に向かって深々と頭を下げた。
「颯太、今日はありがとう。お兄ちゃんが理解してくれて、本当に嬉しかった」
「咲良が幸せそうで、俺も安心した。エドワードさんはいい人みたいだしな」
「うん。でも、私はずっと颯太の妹よ。それは絶対に変わらない」
兄妹は顔を見合わせて、同時に笑った。
翌朝、颯太は一人で食堂の掃除をしていた。昨夜の出来事を振り返りながら、新しい一日の準備をする。咲良の恋は、颯太にとって新たな気づきをもたらした。大切な人の幸せを願うということ、そしてその人の選択を信じて見守るということの意味を。
奥の扉から、グランドの声が聞こえた。
「颯太よ、今日はなにやら良い匂いがするな」
「おはよう、グランド。今日は特別な朝食を作ったんだ」
「ほう、何か良いことでもあったのか?」
「ああ、咲良に恋人ができたんだよ」
グランドの大きな瞳が丸くなった。
「それは……複雑だな」
「最初はそう思ったけど、今は素直に祝福したいと思ってる。大切な人の幸せを願うのが、本当の愛情なんだろうからな」
颯太の言葉に、グランドは深くうなずいた。
「その通りだ。お前も大人になったな、颯太よ」
朝の光が食堂を明るく照らしていた。新しい一日が始まろうとしている。咲良の恋を通じて学んだことを胸に、颯太は今日もまた、料理と愛情で人々の心を結んでいく。
しかし、その時颯太はまだ知らなかった。この咲良の恋が、やがて青嵐食堂に大きな変化をもたらすことになるということを……