青嵐食堂の奥座敷で、リリアは静かに魔導書のページをめくっていた。窓の外からは相変わらず戦太鼓の音が響いてくるが、以前のように震えることはもうない。代わりに、胸の奥で何かが燃えているのを感じていた。
「颯太さん、この組み合わせはどうでしょうか」
リリアが振り返ると、厨房で仕込みに励む颯太の背中が見えた。その手は迷いなく包丁を握り、野菜を刻んでいく。
「ん?どれどれ」
颯太は手を止めて、リリアの差し出したノートを覗き込んだ。そこには彼女が研究している魔法料理の配合が、丁寧な文字で記されている。
「回復効果のあるヒールハーブと、精神力を高めるサイレントリーフの組み合わせ。面白いな。でも、この二つは相性が悪いんじゃないか?」
「それが、昨日気がついたんです。仲介役としてムーンベルの花粉を使えば、互いの効果を打ち消さずに済むかもしれません」
颯太の眉が上がった。リリアの研究は日に日に深みを増している。以前なら人前で自分の考えを述べることすら躊躇していた彼女が、今では堂々と新しいアイデアを提案してくる。
「すごいじゃないか。試してみよう」
二人が実験を始めようとしたその時、食堂の扉が勢いよく開いた。
「颯太殿、リリア嬢!」
アーサーが血相を変えて駆け込んできた。その後ろには、息を切らしたエルヴンの若い兵士が続いている。
「どうした?」
「避難所で食中毒が発生したのです。原因不明で、治癒魔法も効きません。咲良殿は現地で対応に当たっていますが、人手が足りません」
颯太の表情が険しくなった。戦時中の食中毒は命に関わる。
「分かった。すぐに向かおう」
颯太が厨房から救急箱を取り出している間に、リリアは立ち上がった。
「私も行きます」
「リリア、でも君は人混みが苦手だろう?避難所は混乱しているだろうし」
「だからこそ、行かなければなりません」
リリアの瞳に、颯太が見たことのない強い意志の光が宿っていた。
「私は今まで、怖がってばかりでした。でも颯太さんや皆さんを見ていて分かったんです。本当に大切なものを守るためには、勇気を出さなければいけないって」
グランドが感心したような声を上げた。
「ほう、小さな魔法使いよ。お前もついに覚悟を決めたのだな」
「はい。私にも、できることがあるはずです」
避難所は想像以上に混乱していた。食中毒の症状を訴える避難民たちが次々と運び込まれ、咲良や治療にあたる魔導師たちは手一杯の様子だった。
「お兄ちゃん!」
咲良が颯太たちに気づいて駆け寄ってきた。その顔は疲労で青ざめている。
「症状は?」
「腹痛と嘔吐、それに高熱。今朝の朝食後から始まって、もう二十人以上が倒れています。治癒魔法で一時的に症状は和らぐんですが、根本的な解決にはなりません」
颯太は素早く状況を把握した。
「朝食のメニューは?」
「野菜スープと黒パン、それに保存用の塩漬け肉です。でも、同じものを食べても症状が出ない人もいるんです」
「個人差があるということは、アレルギー反応か、あるいは」
リリアが口を開いた。
「毒草の可能性があります」
全員が振り返る。リリアは少し頬を赤らめたが、怯むことなく続けた。
「この季節、食用の山菜に似た毒草が多く出回ります。特にエルヴン領の山間部では、ポイズンリーフという植物が」
「ポイズンリーフ!」
咲良が手を打った。
「それです!症状が完全に一致しています。でも、解毒方法は」
「あります」
リリアが力強く言った。
「ピュリファイルートという薬草を煎じて飲ませれば、毒素を中和できます。ただし、調理に魔法を併用する必要があります」
アーサーが心配そうに眉をひそめた。
「その薬草はどこに?」
「森の奥にあります。でも、採取には時間がかかりますし、この人数分を集めるのは」
颯太が決然と立ち上がった。
「俺が採りに行く。リリア、案内してくれるか?」
「はい!」
森の中を二人で駆けながら、颯太はリリアの変化に驚いていた。以前なら人前で発言することすら困難だった彼女が、今では的確な判断を下し、積極的に行動している。
「リリア、君は本当に変わったな」
「颯太さんのおかげです」
リリアが振り返って微笑んだ。その笑顔には、以前の不安や恐れはもうない。
「颯太さんが教えてくれました。料理は人を幸せにする魔法だって。だったら私も、その魔法を使って人を助けたいんです」
「君は十分助けているよ。君の知識がなかったら、原因も分からないままだった」
ピュリファイルートは森の深い場所にひっそりと自生していた。リリアの指示で、颯太は必要な分だけ丁寧に採取する。
「量は十分だな。急いで戻ろう」
避難所に戻ると、症状を訴える人はさらに増えていた。リリアは迷うことなく大鍋の前に立ち、薬草を煎じ始めた。
「浄化の風よ、毒を清めよ」
彼女の指先から淡い光が立ち上り、鍋の中の液体が薄緑色に光った。魔法と調理技術が見事に融合した、リリア独自の治療薬だった。
「すごいじゃないか」
颯太が感嘆の声を上げる。リリアの魔法料理の腕前は、短期間で飛躍的に向上していた。
治療薬を飲んだ患者たちは、見る見るうちに顔色が良くなっていく。子供たちの苦しそうな表情が和らぎ、大人たちも安堵の息をついた。
「ありがとうございます、リリアさん」
若い母親が、回復した子供を抱きながらリリアに頭を下げた。リリアは少し照れながらも、しっかりと返事をした。
「いえいえ、お役に立てて良かったです」
その夜、青嵐食堂に戻った一行は、ようやく緊張を解くことができた。
「リリア、今日は本当にありがとう」
咲良が心からの感謝を込めて言った。
「君がいなかったら、大変なことになっていた」
リリアは嬉しそうに微笑んだ。
「私も皆さんのお役に立てて、とても嬉しかったです。以前なら、あんな大勢の人の前で魔法を使うなんて考えられませんでした」
「何が君を変えたんだ?」
グランドが興味深そうに尋ねる。リリアは少し考えてから答えた。
「颯太さんが作る料理を見ていて気づいたんです。料理は一人で完成するものじゃない。食材を育てる人、調理する人、そして食べる人。みんながいて初めて、本当に美味しい料理になるんだって」
颯太が感動したような表情を浮かべた。
「だから私も、一人で研究ばかりしていてはいけないと思いました。私の魔法を必要としている人たちのために、勇気を出して行動しなければって」
アーサーが満足そうにうなずいた。
「立派な成長だ。君は真の魔法使いになったな、リリア」
しかし、喜びに浸る時間は長くは続かなかった。突然、食堂の扉が激しく叩かれた。
「緊急事態です!」
オーウェンが血相を変えて飛び込んできた。
「魔王軍が動き出しました。予想より早く、明日の夜明けには王都に到達します!」
一同の表情が一変した。ついに最終決戦の時が来たのだ。
「準備はできているのか?」
颯太が厳しい表情で尋ねる。
「戦力の配置は完了しています。しかし」オーウェンが言いよどんだ。「問題があります。魔王が使う闇の魔法に対抗するため、特別な料理が必要なのです」
「特別な料理?」
「光の加護を宿した食事です。それを食べた者だけが、魔王の闇の力に対抗できると古い文献に記されています」
リリアが立ち上がった。
「私に作らせてください」
全員が驚いたように彼女を見つめた。
「リリア、でも君一人では」
「一人ではありません」
リリアが颯太を見つめる。その瞳には、揺るぎない決意が宿っていた。
「颯太さん、一緒に作ってください。私たちの料理で、きっと皆を守れます」
颯太が深くうなずいた。運命の時が、ついに近づいていた。