夕暮れ時の青嵐食堂は、いつものように温かな光に包まれていた。颯太は厨房で星の雫ゼリーの最後の仕上げに取りかかりながら、先ほどのリリアたちとの会話を反芻していた。魔力の流れが不安定になっているという話は、確かに最近の食材の変化と符合する。
「兄さん、お疲れ様」
咲良が店の奥から現れ、颯太の肩に手を置いた。
「ああ、お疲れ。今日も遅くまでありがとう」
「最近、なんだか疲れて見えるけど大丈夫?」
妹の心配そうな声に、颯太は苦笑いを浮かべる。咲良には異世界のことは話していない。彼女を巻き込みたくない気持ちと、信じてもらえるかどうかの不安があった。
「大丈夫だよ。新しいメニューの開発に夢中になってるだけさ」
「そう? それなら良いけど...」
そのとき、店の奥から異様な気配が漂ってきた。空気がぴりりと張り詰め、颯太の肌に鳥肌が立つ。
「咲良、先に帰ってくれ」
「え? でも片付けが...」
「いいから」
颯太の真剣な表情に、咲良は驚いたが素直に頷いた。
「分かった。でも、何かあったらすぐに連絡してね」
咲良が店を出て行くのを見送ると、颯太は奥の扉に向かった。扉の向こうから、低いうなり声が聞こえてくる。
扉を開けると、アルカディア大陸の森の入り口で、アーサーが剣を構えて身構えていた。その向こうに、異形の影がうごめいている。
「颯太殿! 来てはいけません!」
アーサーの制止を振り切り、颯太は前に出た。森の木々の間から現れたのは、狼のような姿をした魔物だった。しかし、その目は血のように赤く光り、口からは紫色の霧が漏れ出している。
「これが魔物か...」
颯太は息を呑んだ。魔物は三匹おり、それぞれが牙を剥き出しにして威嚇している。
「グランドはどこに?」
「空から様子を見ている。いざとなれば降りてくるが、まずは私が対処する」
アーサーの剣が銀色に輝く。聖なる力が宿った刃だった。
「待ってくれ、アーサー」
「何を言っている。魔物は人を襲う。対話など通じない」
「でも、何か苦しんでいるように見える」
颯太の言葉に、アーサーは眉をひそめた。確かに魔物たちの動きには、攻撃性だけでなく、何か苦痛に悶えるような様子が見て取れる。
そのとき、一匹の魔物が颯太に向かって飛びかかってきた。アーサーが割って入ろうとするが、颯太は思わず手を伸ばした。
「待って!」
不思議なことに、魔物の動きが止まった。颯太の手のひらから、かすかに星の雫ゼリーの甘い香りが漂っている。
魔物の赤い目が、一瞬だけ普通の獣の目に戻った。
「もしかして...」
颯太は急いで厨房に戻ると、作りたてのスープを持ってきた。シンプルな野菜スープだが、丁寧に時間をかけて作ったものだ。
「颯太殿、危険です」
「大丈夫」
颯太は恐る恐る魔物に近づき、スープの椀を差し出した。魔物は警戒しながらも、スープの香りに鼻をひくつかせる。
やがて、一匹がそっと舌でスープを舐めた。すると、その魔物の体から紫の霧が薄れ始め、赤い目が元の優しい茶色に戻っていく。
「信じられない...」
アーサーが剣を下ろした。
残りの二匹も、仲間の変化を見て警戒を解き始める。颯太はスープを分けて与えると、三匹とも大人しくなり、最後には颯太の手を舐めて感謝を示すように鳴いた。
「何が起きたのだ」
空からグランドが舞い降りてきた。
「魔物が...料理で正気を取り戻した」
颯太自身も驚いていた。
「興味深い」
グランドは魔物たちを見つめる。
「こやつらは本来、森の番犬のような存在だった。何かに汚染されて凶暴化していたようだが...」
「料理に何か特別な力があるということでしょうか」
アーサーの問いに、颯太は首を振った。
「特別なことは何もしていない。ただ、心を込めて作っただけだ」
「それが特別なのですよ、颯太殿」
リリアが森の奥から現れた。彼女の表情は興奮に満ちている。
「私たちが知っている限り、こんなことができる料理人は聞いたことがありません」
「でも、なぜ?」
「分からないが」グランドが重々しく口を開いた。「お主の料理には、魂を浄化する力があるのかもしれん」
魔物たちは満足そうにスープを飲み終えると、颯太に頭を下げるように鳴いて森の奥へと帰っていった。
「今日のことで分かったことがある」
颯太は仲間たちを見回した。
「魔物の異常な行動も、魔力の乱れと関係している。そして、料理に何か解決の糸口があるかもしれない」
「では、他の魔物たちも...」
「ああ。もしかしたら、戦わずに済む方法があるかもしれない」
夜が深くなり、一行は一旦解散することにした。颯太は一人厨房に残り、今日の出来事を振り返っていた。
料理で魔物を懐柔する。そんなことが可能だとは思ってもみなかった。しかし、確かに起きたことだ。
そのとき、厨房の窓の向こうに、小さな光が浮かんでいるのに気づいた。蛍のような、でもどこか神秘的な光だった。
光は窓ガラスに触れると、一瞬だけ文字のような形を作った。
『時が来た』
颯太は目を見開いた。しかし、もう一度見たときには、光は消えていた。
「時が来た...?」
胸の奥で、何かが動き出したような気がした。これから起こることへの予感と、それに立ち向かう決意が、静かに芽生えていく。
颯太は厨房を見回した。明日からは、きっと今までとは違う毎日が始まる。料理人として、そして異世界の仲間たちと共に歩む者として、新しい使命が待っている。
外では夜風が吹き、青嵐食堂の看板を静かに揺らしていた。