想起の間に降りた静寂は、まるで時が止まったかのように深く、重かった。朔夜は黒羽憂の傍らに膝をつき、その閉ざされた瞼を見つめていた。憂の頬には涙の痕が乾き、長い睫毛が影を落としている。
「朔夜様」
紬の声が背後から聞こえた。振り返ると、巫女装束の裾を翻して彼女が近づいてくる。その表情には心配と、そして僅かな困惑が浮かんでいた。
「憂殿の記憶は、酷く損傷しております。雪乃様との記憶以外は、ほとんどが忘却獣によって蝕まれて……」
「分かっている」
朔夜は憂の額に手を置いた。その肌は氷のように冷たく、脈動する記憶の欠片が指先に伝わってくる。断片的で、歪んで、所々が黒く焼け焦げたような記憶の残骸。それでも、確かにそこには憂という人間の軌跡が刻まれていた。
「でも、やってみる。完全には戻らないかもしれないが……少しでも、彼が自分自身を取り戻せるように」
椿野老師が杖をつきながら歩み寄った。
「朔夜よ、記憶の修復は容易なことではない。特に自ら破壊した記憶となれば、その者の魂に深い傷を残す可能性もある」
「それでも」
朔夜の声に迷いはなかった。
「憂は雪乃さんとの愛を思い出した。なら、他の記憶も……憂自身の人生も、取り戻す価値があるはずだ」
紬が小さくため息をついた。
「朔夜様は、本当にお優しい方でございますね」
朔夜は憂の額に両手を当て、目を閉じた。影絵師の力を集中させ、憂の記憶の深層へと意識を潜らせていく。
記憶の海は嵐に荒れ狂っていた。黒い霧が渦巻き、記憶の欠片が嵐に舞い踊っている。朔夜は慎重に、壊れた記憶の断片を一つずつ拾い集めていった。
幼い憂が母親に抱かれている記憶。書物を読みふける少年時代。初めて記憶操作の力に目覚めた日の驚き。そして、雪乃と出会った運命の瞬間。
だが、記憶の多くは既に失われていた。忘却獣に食い荒らされ、憂自身の絶望によって破壊され、もはや修復不可能な状態になっている。朔夜は歯を食いしばり、残された記憶の欠片を丁寧に繋ぎ合わせていく。
やがて、憂がゆっくりと目を開けた。
「……ここは?」
その声は以前の冷酷さを失い、どこか茫洋とした響きを持っていた。朔夜は憂の顔を覗き込んだ。
「想起の間だ。君の記憶は……」
「覚えている」
憂は上体を起こし、自分の手のひらを見つめた。
「雪乃のこと。彼女を失った絶望。そして、私が犯した数々の罪も」
憂の目に再び涙が浮かんだ。だが今度は、絶望ではなく悔恨の涙だった。
「私は……取り返しのつかないことをした。多くの人々の記憶を奪い、忘却獣を解き放ち……」
「だが、君はもう違う」
朔夜は憂の肩に手を置いた。
「君は愛を思い出した。雪乃さんとの記憶を通じて、本当の自分を取り戻した」
憂は首を振った。
「いや、私の記憶の大部分は失われている。過去の私がどんな人間だったのか、もうほとんど覚えていない。覚えているのは雪乃との思い出と、そして……復讐に狂った日々だけだ」
紬が憂の前に歩み出た。
「それでも、憂殿は変わられました。記憶を失ったとしても、魂は生きております」
「魂、か」
憂は苦笑いを浮かべた。
「私にそんなものが残っているのだろうか」
「残っている」
椿野老師が断言した。
「記憶を失っても、愛は残る。雪乃殿への愛、そして彼女があなたに抱いていた愛も。それこそが、あなたの魂の核なのだ」
憂は立ち上がり、想起の間を見回した。無数の記憶が漂う神秘的な空間。彼がかつて破壊しようとした、記憶の聖域。
「私は……これからどうすればいいのだろう」
「それは君が決めることだ」
朔夜が答えた。
「過去は変えられない。でも、未来は君の手の中にある」
憂は長い間沈黙していた。やがて、決意を込めた表情で振り返った。
「私は旅に出よう。この街を離れ、自分が犯した罪を償う方法を探したい」
「憂殿……」
紬が心配そうな声を上げた。
「一人では危険でございます。まだ忘却獣の残党もおりますし……」
「だからこそ、私が行くべきなのだ」
憂の目に決意の光が宿った。
「忘却獣を操っていたのは私だ。残された獣たちを鎮めるのも、私の責任だろう」
朔夜は憂の手を握った。
「無理をするな。君一人で全てを背負う必要はない」
「分かっている。でも、これは私自身のためでもあるんだ」
憂は微笑んだ。それは、朔夜が初めて見る憂の穏やかな笑顔だった。
「記憶の大部分を失った私が、新しい自分を見つけるための旅でもある。雪乃が愛してくれた本当の私を、もう一度築き上げるために」
椿野老師が頷いた。
「それも一つの道だな。記憶を失った者が、新たな記憶を紡いでいく。それもまた、記憶の在り方の一つだ」
憂は想起の間の奥へと歩いていき、そこに安置されている古い石碑の前で跪いた。
「雪乃……私は君の愛を胸に、新しい道を歩んでいく。君が信じてくれた私になれるよう、努力するから」
石碑が仄かに光を放ち、まるで雪乃の魂が憂を見守っているかのようだった。
憂は立ち上がると、朔夜たちの元へ戻ってきた。
「朔夜、君には感謝している。君がいなければ、私は永遠に憎しみの中に囚われていただろう」
「俺は何も……」
「いや、君は私に愛を思い出させてくれた。それは私にとって最も大切な贈り物だ」
憂は紬にも深々と頭を下げた。
「織部紬殿、そして椿野老師。長い間、ご迷惑をおかけした。いつの日か、必ず償いをする」
紬の目に涙が浮かんだ。
「憂殿……どうかお気をつけて」
憂は想起の間の出口へと向かった。その背中は、以前の冷酷な雰囲気とは打って変わって、どこか温かみを感じさせる。
「また会えるだろうか」
朔夜の問いかけに、憂は振り返って微笑んだ。
「いつか必ず。その時は、きっと今よりも良い人間になって戻ってくる」
憂の姿が想起の間の階段に消えていく。朔夜は何か大切なものを見送るような気持ちになった。
だが、憂が完全に姿を消した時、椿野老師が険しい表情を浮かべた。
「朔夜よ、紬よ。憂の件は一段落したが、我々の戦いはまだ終わっていない」
「え?」
朔夜が振り返ると、老師は想起の間の奥を見つめていた。
「憂が操っていた忘却獣たちは確かに鎮まった。だが、それとは別の……より古く、より強大な存在が動き始めているのを感じる」
紬も顔を青くした。
「まさか……『始原の忘却』が?」
「可能性は高い。憂との戦いで想起の間の封印が緩んだのかもしれない」
朔夜は拳を握った。新たな脅威。そして、それは今まで戦ってきたものとは比べものにならないほど強大な敵かもしれない。
だが同時に、朔夜の心には確かな手応えがあった。憂を救うことができた。記憶の力で、憎しみを愛に変えることができた。なら、どんな敵が現れても……
「俺たちなら、きっと乗り越えられる」
朔夜の言葉に、紬が力強く頷いた。
「はい。朔夜様と共になら」
想起の間に新たな嵐の気配が漂い始めた時、三人の絆はより深く結ばれていた。