蒼い眼の忘却獣が放つ光に、朔夜は身を縮ませた。その視線が街を舐めるように動く度、建物の記憶が音を立てて崩壊していく。長い間人々に愛されてきた商店街の店先から、家族の笑い声が消えていく。子供たちが遊んだ公園から、無邪気な歓声が掻き消されていく。
「このままでは、霞ヶ丘市の全ての記憶が」
紬の声が震えていた。彼女の手に握られた守護の札が、忘却獣の力に押し負けて薄く光っているのが朔夜にも見えた。
朔夜は懸命に影絵を操ろうとしたが、忘却獣の規模があまりにも巨大すぎた。これまでに戦ってきた忘却獣とは次元が違う。街全体を覆い尽くすほどの巨体、そして無数の触手のような記憶吸収器官。最も恐ろしいのは、その中心部で脈打つ蒼い眼だった。
「朔夜、あの眼の奥に」
紬が指差す先を見詰めながら、朔夜は歯を食いしばった。確かに見える。忘却獣の核となる眼の向こう側で、憂の姿がぼんやりと浮かんでいるのが。彼もまた、この化け物の犠牲者なのかもしれない。
その時、背後から落ち着いた声が響いた。
「なるほど、ついにこの時が来たか」
振り返ると、椿野老師が杖をついて立っていた。いつもの飄々とした表情ではなく、深い覚悟を宿した眼差しで忘却獣を見上げている。
「老師、危険です。早くここから」
朔夜が駆け寄ろうとしたが、老師は片手を上げてそれを制した。
「朔夜よ、お前に話していないことがある」
老師の声に、これまで聞いたことのない重みがあった。
「実は私もまた、記憶を操る能力者の一人だった。ただし、お前や紬ちゃんとは少し違う。私の能力は、蓄積した記憶を他者に譲渡することなのだ」
朔夜と紬は息を呑んだ。老師が能力者だったとは。
「何故今まで」
「言わなかった理由は簡単だ。この能力には致命的な欠陥がある」
老師は振り返り、二人に穏やかな微笑みを向けた。
「記憶を全て他者に譲渡した時、私という存在は消滅する。記憶こそが人の本質である以上、それは避けられない運命なのだ」
紬の顔が青ざめた。
「まさか、老師は」
「この六十有余年の人生で、私は数多くの記憶を蓄積してきた。古い文献から学んだ知識、歴代の記憶守護者から受け継いだ技術、そして忘却獣との戦い方。それら全てを、今こそお前たちに託す時が来た」
老師は杖を地面に突き立て、深く息を吸い込んだ。その瞬間、老師の身体から温かな光が溢れ始める。
「待ってください!」
朔夜が叫んだ。
「他に方法があるはずです。老師が犠牲になる必要なんて」
「朔夜よ、人は皆いつか死ぬ。大切なのは、どう死ぬかではない。どう生きたかだ」
老師の身体がより強く光り始めた。その光は記憶そのものの輝きだった。数え切れないほどの想い出、学んだ知識、愛した人々への想い。全てが光となって老師から溢れ出している。
「私は良い人生を生きた。素晴らしい弟子に出会い、彼の成長を見守ることができた。記憶守護者の血を引く少女の力になることもできた。これ以上の幸せがあるだろうか」
光は次第に強くなり、忘却獣に向かって放射され始めた。忘却獣が苦しそうに身を捩る。記憶を食らう存在にとって、純粋で強固な記憶の塊は毒のようなものなのだろう。
「朔夜、紬ちゃん、よく聞きなさい」
老師の声が、光と共に二人の心に直接響いてくる。
「忘却獣の弱点は、矛盾する記憶を同時に与えることだ。私の記憶でそいつを混乱させている間に、憂くんを救い出すのだ」
「老師」
涙を流しながら紬が叫んだ。
「ありがとうございました。貴方のことは絶対に忘れません」
「忘れてはいけない。しかし、囚われてもいけない。記憶は生きるための力であって、生きることを止めるための鎖ではないのだから」
老師の姿が薄くなっていく。同時に、忘却獣の動きが鈍くなっていく。蒼い眼の光が明滅し、その奥で憂の姿がより鮮明に見えるようになってきた。
「朔夜よ、お前の影絵の技術はまだまだ未熟だ。だが、心の強さは誰にも負けない。その心こそが、真の力の源なのだ」
最後の言葉と共に、老師の姿が完全に光となって散っていく。その光が忘却獣を包み込むと、化け物は苦悶の声を上げながら身体を震わせた。
朔夜は握りしめた拳を見詰めた。老師から受け継いだ記憶が、自分の中で脈打っているのを感じる。数十年分の知識と経験、そして何よりも強い意志。
「紬」
「はい」
「老師の犠牲を無駄にするわけにはいかない」
朔夜は立ち上がり、忘却獣を見上げた。怪物は老師の記憶に混乱し、その巨体を激しく揺らしている。今がチャンスだった。
「憂を助け出そう」
紬も涙を拭い、決意を新たに頷いた。
「ええ、必ず」
二人は手を取り合い、弱体化した忘却獣に向かって駆け出した。老師の最後の教えを胸に、そして受け継いだ記憶を力に変えて。
蒼い眼の奥で、憂の姿がより鮮明になっていく。もう少し、もう少しで手が届く。老師の犠牲を無駄にするわけにはいかない。
朔夜の心に、新たな決意が燃え上がっていた。