朝の陽光が古書店の窓から差し込み、埃舞う空間に金色の帯を描いていた。朔夜と紬は椿野老師の前で、昨夜の戦いの報告を終えたばかりだった。
「忘却獣王を倒したか」老師は満足そうに頷きながら、湯気の立つ茶を啜った。「二人の連携が実を結んだようじゃな。だが、黒羽憂の動きが気になる。奴はそう簡単に諦める男ではない」
「はい。私たちも油断はしておりません」紬が凛とした声で答える。「ですが、今は以前よりも心強く感じます」
朔夜は紬の横顔を見つめた。昨夜、彼女と能力を融合させた時の感覚がまだ心に残っている。あの温かな光と、確かな絆の感触。一人で戦うことの愚かしさを、ようやく理解できた気がしていた。
「朔夜よ」老師が急に真剣な表情になった。「最近、妙な噂を耳にしておる。記憶を売買する者たちがいるというのじゃ」
「記憶の売買?」朔夜は眉をひそめた。
「ああ。美しい思い出や貴重な技能の記憶を、金で取引しているらしい。まだ噂の段階じゃが、もし本当なら看過できぬ事態じゃ」
紬の顔が青ざめた。「そのような不浄な行為が本当にあるとすれば、記憶番人として断じて許せません」
その時、店の扉が勢いよく開かれた。飛び込んできたのは、息を切らせた中年の女性だった。
「椿野さん、助けて!」女性は涙声で叫んだ。「娘の記憶が、記憶が盗まれたんです!」
老師は素早く立ち上がり、女性を椅子に座らせた。「落ち着いて話してくれ、田中さん」
田中と呼ばれた女性は震え声で語り始めた。「昨日の夜、娘の美穂が帰ってきたんです。でも様子がおかしくて…大学で学んだ専攻のことも、恋人のことも、何もかも忘れているんです。まるで高校生に戻ったみたいに」
「それは…」朔夜は息を呑んだ。
「娘が言うには、街で声をかけられた男性についていったら、変な機械のような物を頭に当てられたって。気がついた時には、大切な記憶が空っぽになっていたそうです」
紬の拳が強く握られた。「許せません。記憶は人の魂そのもの。それを盗むなど、最も卑劣な犯罪です」
老師は深刻な表情で頷いた。「やはり噂は本当だったか。田中さん、その男の特徴は覚えておるかね?」
「美穂が言うには、とても上品で優しそうな男性だったそうです。『君の素晴らしい記憶を、もっと価値のある形で活かしてみないか』って言葉巧みに誘ったって」
朔夜は立ち上がった。「僕の能力で、娘さんの残った記憶を影絵として映し出してみます。何か手がかりが見つかるかもしれません」
「朔夜様、私も参ります」紬も決然と立ち上がった。
田中家は商店街の奥にある小さな民家だった。娘の美穂は二十歳前後の清楚な女性だったが、その瞳には確かに空虚さが宿っていた。
「すみません、私、何だかぼんやりしていて」美穂は困惑した様子で呟いた。「大学で何を勉強していたのか、どうしても思い出せないんです」
朔夜は美穂の前に座り、手を差し出した。「少し、あなたの記憶を見させてください。痛みはありません」
美穂の手に触れた瞬間、朔夜の周りに影絵が浮かび上がった。だが、そこに映し出されたのは断片的で歯抜けになった記憶の欠片だった。明らかに何者かによって意図的に抜き取られた痕跡がある。
「これは…」朔夜は息を詰めた。記憶の切断面があまりにも鮮明で、手術のように精密な技術で行われていることが分かった。
そして、僅かに残った記憶の中に、一人の男性の姿が映った。上品なスーツを着た、どこか見覚えのある顔立ちの男性だった。
「あの男性です」美穂が指差した。「とても親切で、私の将来を心配してくれているみたいでした」
紬が美穂の手を取った。「必ず取り戻して差し上げます。記憶は戻ります」
古書店に戻ると、老師は深刻な顔で資料を広げていた。「調べてみたが、やはりこの街に記憶の闇市場が存在するようじゃ。『メモリーバンク』と呼ばれる組織が、記憶を商品として扱っているらしい」
「メモリーバンク?」朔夜は眉をひそめた。
「技能記憶、感情記憶、知識記憶…あらゆる種類の記憶が値段をつけられて売買されている。富豪が天才の記憶を買い取ったり、美しい恋愛体験を求める者が他人の記憶を購入したりしているそうじゃ」
紬の顔が憤りで歪んだ。「記憶は商品ではありません。その人だけのかけがえのない宝物です」
「しかも」老師は声を潜めた。「その組織のバックには、黒羽憂がいるという情報もある」
朔夜の心に怒りが湧き上がった。忘却獣で記憶を破壊するだけでは飽き足らず、今度は記憶を盗んで売買しているというのか。
「場所は分かりますか?」朔夜は静かに尋ねた。
「地下街の奥、廃墟となったデパートの地下にあるらしい。だが危険じゃ。相手は組織的に動いている」
「それでも行きます」朔夜は立ち上がった。「僕たちがやらなければ、誰がやるんですか」
「朔夜様の仰る通りです」紬も毅然として立った。「記憶番人として、この悪行を見過ごすわけにはいきません」
老師は二人を見詰めて、ゆっくりと頷いた。「ならば、十分に気をつけよ。記憶泥棒どもは、お前たちの能力を狙っているかもしれん」
夕暮れが街を染める頃、朔夜と紬は地下街へ向かった。二人の心には、美穂の空虚な瞳と、田中さんの涙が刻まれていた。
「朔夜様」紬が小さく呟いた。「記憶を商品として扱うなど、私には理解できません。記憶とは、その人が生きてきた証そのものなのに」
「僕もです」朔夜は拳を握った。「でも、きっと止められる。あなたと一緒なら」
地下街の奥で、二人を待っていたのは想像を絶する光景だった。記憶が商品として陳列され、人々の魂が値札をつけられて売買される、悪夢のような市場が広がっていたのである。