街に映し出された無数の記憶の影絵は、まるで悪夢のように朔夜の網膜に焼き付いていた。あの夜から三日が過ぎても、彼の心は重い罪悪感に押し潰されそうになっている。
古書店「記憶堂」の二階にある自室で、朔夜は窓の外を見つめていた。霞ヶ丘市の街並みはいつもと変わらない様子を見せているが、彼にはそこここに残る記憶の残滓が見えてしまう。自分の暴走した能力が引き起こした混乱の痕跡が、まだ薄っすらと影を落としているのだ。
「朔夜君、紬さんが来てるよ」
階下から椿野老師の声が響いたが、朔夜は身動きしなかった。ここ三日間、紬は毎日訪れてくれているが、朔夜は会うことを避け続けている。彼女もまた、あの暴走に巻き込んでしまったのだから。
足音が階段を上ってくる。紬は遠慮なく部屋のドアを開けた。
「朔夜様、いい加減にしてくださいませ」
振り返ると、普段の穏やかな表情とは違う、厳しい眼差しの紬がそこにいた。彼女の頬には怒りの紅が差している。
「何を一人で抱え込んでいらっしゃるのですか。あの夜のことでしたら、朔夜様だけの責任ではございません」
「でも、暴走したのは俺の能力だ」朔夜は窓に背を向けたまま呟いた。「街の人々の記憶を勝手に暴いて、恥ずかしい思いをさせて……紬だって、きっと」
「それは黒羽憂の仕業です」紬の声に怒りが込められた。「朔夜様の心の優しさを利用した、卑劣な策略に過ぎません」
朔夜はゆっくりと振り返った。紬の瞳には涙が滲んでいる。
「でも結果は変わらない。俺がいることで、また同じことが起こるかもしれない。それなら……」
「それなら、なんだと仰るのですか」
紬の声が震えている。朔夜は彼女の顔をまっすぐ見ることができなかった。
「俺は一人でやる。黒羽憂との決着も、忘却獣の討伐も。これ以上、誰かを巻き込みたくない」
紬の表情が凍りついた。しばらくの沈黙の後、彼女は小さくため息をついた。
「……分かりました」
その言葉が、朔夜の予想とは違っていた。もっと激しく反対されると思っていたのに、紬はあっさりと引き下がった。
「でしたら、朔夜様のお心のままに。ただし」
紬は袖から小さな鈴を取り出し、朔夜の手に押し付けた。
「本当に危険になったときだけ、これを鳴らしてください。記憶の番人としての最後の願いです」
そう言い残すと、紬は部屋を出て行った。足音が遠ざかっていき、やがて玄関のドアが静かに閉まる音が聞こえた。
朔夜は手の中の鈴を見つめた。暖かな金属の感触が、なぜか胸に痛みを呼び起こす。これで良かったのだと自分に言い聞かせながらも、心の奥底では激しい後悔が渦巻いていた。
その夜、朔夜は一人で街を歩いていた。紬と離れてしまった今、黒羽憂の居場所を探る手がかりは限られている。だが、忘却獣の気配を辿れば、きっと彼の痕跡を見つけることができるはずだ。
商店街を抜け、住宅地を通り、やがて霞ヶ丘市の郊外へと足を向けた。街の明かりが遠ざかるにつれて、空気が重く淀んでいくのを感じる。忘却獣の気配が濃くなっている証拠だった。
工場跡地の廃墟群に差し掛かったとき、朔夜は足を止めた。異様な静寂に包まれたコンクリートの建造物の間から、低い唸り声が響いてくる。
「やっと現れたな」
振り返ると、黒羽憂が廃工場の屋根の上に立っていた。月光に照らされた彼の美しい顔には、冷酷な笑みが浮かんでいる。
「一人で来るとは、随分と殊勝な心がけじゃないか。記憶の番人はどうした?」
「関係ない」朔夜は右手を構えた。「お前との決着は、俺一人で十分だ」
黒羽憂の笑みが深くなった。
「そうか。ならば、相応の歓迎をしてやろう」
彼が指を鳴らすと、廃工場の影から巨大な影がゆっくりと現れた。今まで見たことのない大きさの忘却獣だった。体長は優に三メートルを超え、全身を覆う黒い毛は金属のような光沢を放っている。赤い眼が朔夜を見据えると、空気が震えるような咆哮を上げた。
朔夜の血の気が引いた。これまで戦ってきた忘却獣とは格が違う。圧倒的な質量と殺気が、彼の身体を金縛りにしていた。
「どうだ、気に入ったか?」黒羽憂の声に嘲笑が込められている。「これは忘却獣の王種。一匹で街ひとつの記憶を喰らい尽くす力を持っている」
忘却獣が一歩前に出ると、地面が軋んだ。朔夜は慌てて影絵の術を発動させようとしたが、恐怖で集中できない。能力が思うように働かない。
「影朔夜、影よ……」
呟きながら手を翳したが、現れたのは小さく歪んだ影の欠片だけだった。忘却獣王はそれを鼻先で軽く吹き飛ばすと、再び咆哮を上げた。
これはまずい。朔夜は後ずさりした。一人では到底太刀打ちできない相手だった。
忘却獣王が跳躍した。巨大な身体が月光を遮り、朔夜の上に影を落とす。とっさに横に跳んで回避したが、着地した衝撃で周囲のコンクリートが粉々に砕けた。
「くそっ……」
朔夜は必死に距離を取ろうとしたが、忘却獣王の動きは想像以上に俊敏だった。次の攻撃をかわしきれず、朔夜の身体は廃工場の壁に叩きつけられた。
激痛が全身を駆け巡る。口の中に鉄の味が広がった。
「所詮は一人の力など、この程度だ」黒羽憂が屋根の上から見下ろしている。「記憶の番人と共にいれば、もう少しは楽しめたかもしれないのに」
忘却獣王がゆっくりと朔夜に近づいてくる。その赤い眼に映る自分の姿は、あまりにも無力で惨めだった。
朔夜は震える手で、紬からもらった鈴を取り出した。これを鳴らせば彼女が来てくれるだろう。しかし、それでは結局彼女を危険に晒すことになる。
鈴を握りしめながら、朔夜は迷った。一人で解決すると決めたのに、ここで助けを呼んでしまって良いのだろうか。
忘却獣王の巨大な爪が朔夜の頭上に振り下ろされようとしたとき、彼はようやく気づいた。自分は孤独を選んだのではない。ただ逃げていただけなのだ。紬の優しさから、二人で歩んできた道のりから、そして自分自身の気持ちから。
鈴の音が、静寂の夜に響いた。