夕暮れの古書店から帰る道すがら、朔夜の手のひらはまだ微かに熱を帯びていた。椿野老師が刻んだ抑制の印は、薄っすらと青白く光っては消える。まるで警告するように。
街角の小さな神社の前で、紬の姿を見つけた時、朔夜は立ち止まった。巫女装束に身を包んだ少女が、境内の掃き清められた石畳に正座している。両手を膝の上に置き、まっすぐに本殿を見つめる横顔は、いつもの凛とした美しさとは異なる、どこか痛ましげな影を宿していた。
「紬」
朔夜が声をかけると、少女はゆっくりと振り返った。月明かりが頬に当たり、そこに涙の跡があることに気づく。
「朔夜さま」
いつものように丁寧に頭を下げる紬だったが、その声は僅かに震えていた。
「何があった」
朔夜は鳥居をくぐり、紬の隣に腰を下ろした。少女は少しの間沈黙してから、小さく息を吐いた。
「今日は、母上の命日でございます」
その言葉に、朔夜の胸が締めつけられた。紬の母について、彼は詳しいことを知らない。ただ、記憶番人一族の当主であり、若くして亡くなったということだけを聞いていた。
「話したくなければ、無理に——」
「いえ」紬は首を横に振った。「朔夜さまには、お話しておきたいのです。私が何者で、なぜこのような使命を背負っているのかを」
紬の瞳が、遠い記憶を辿るように細められた。
「母上は、代々記憶番人を務める織部家の十七代目当主でした。美しく聡明で、記憶を操る術にも長けていた。けれど」
紬の声が途切れる。朔夜は黙って待った。
「母上は、恋をしてしまったのです。記憶番人以外の男性に」
夜風が境内の木々を揺らし、葉擦れの音が静寂を破った。
「記憶番人は、血統を守るため一族内での結婚が掟でした。けれど母上は、その掟を破った。愛する人との間に私を授かり、そして——その代償を払うことになったのです」
紬の手が、強く握りしめられた。
「私が五つの時でした。想起の間で大規模な記憶の暴走が起こり、封印が破れそうになった。母上は一人で鎮圧に向かい、そして戻らなかった。記憶の奔流に呑まれ、魂ごと消えてしまわれたのです」
朔夜の胸に、鋭い痛みが走った。五歳の紬が、どれほどの絶望と孤独を味わったのか想像するだけで苦しかった。
「一族の長老たちは言いました。『血を穢した報いだ』と。『掟を破った者の末路だ』と」紬の声に、押し殺した怒りが滲んだ。「そして私に告げたのです。『お前が母の過ちを償え。一生を記憶番人として捧げよ』と」
神社の境内に、重い沈黙が降りた。朔夜は紬の横顔を見つめながら、その小さな肩がどれほど重い十字架を背負ってきたのかを思った。
「それから十二年、私は記憶番人としての修行に明け暮れました。古い記憶の解読、封印の技法、忘却獣との戦い方。すべてを学び、すべてを自分のものにした」紬の瞳に、強い意志の光が宿った。「母上の過ちを償うために。一族の名誉を取り戻すために」
「紬——」
「けれど」少女は朔夜の言葉を遮った。「朔夜さまと出会って、私は初めて知ったのです。使命だけでなく、自分の意志で誰かを守りたいと思う気持ちを」
紬が朔夜の方に向き直った。月明かりの下で、その瞳は透明な涙で潤んでいる。
「朔夜さまの影絵を初めて見た時、私の心は震えました。こんなにも美しく、こんなにも切ない記憶の形があるのかと。そして思ったのです。記憶とは、誰かを縛るためのものではない。誰かを愛するためのものなのだと」
朔夜の喉が詰まった。紬の言葉が、彼の心の奥深くに響いていく。
「母上は間違っていなかった」紬の声が、確信に満ちた響きを帯びた。「愛する人を選び、愛する人との記憶を残したことは間違いではなかった。それを否定する掟の方が間違っているのです」
立ち上がった紬は、本殿に向かって深々と頭を下げた。
「母上、私はもう迷いません。一族の償いのためではなく、自分の意志で記憶を守ります。朔夜さまと共に、新しい記憶番人の在り方を見つけます」
そして朔夜に向き直ると、これまでで最も美しい笑顔を浮かべた。
「朔夜さま、私と一緒に歩んでくださいませ。記憶を愛し、記憶に愛される道を」
朔夜は立ち上がり、紬の手を取った。その手は小さく、しかし確かな強さを宿していた。
「ああ、一緒に歩こう」
二人が神社を出ようとした時、夜空に不吉な影がよぎった。忘却獣の気配が、街の向こうから立ち昇っている。それも今までにない、巨大で邪悪な存在の気配だった。
「まさか——」
紬の顔が青ざめた。朔夜の手のひらの抑制の印が、警告するように激しく光り始める。
霞ヶ丘市の夜が、新たな戦いの幕を上げようとしていた。