想起の間の神聖な静寂が、黒羽憂の嘲笑によって破られた瞬間、朔夜の心臓は嫌な予感で重くなった。憂の美しい顔に浮かぶ薄い笑みは、まるで秘密を知る者だけが浮かべる優越感に満ちていた。
「君の本当の記憶、か」
朔夜は憂を睨みつけた。紬が身構える気配を背中に感じながら、影を操る準備を整える。しかし憂は攻撃する素振りを見せず、代わりに懐から小さなハーモニカを取り出した。
「音楽は美しいものだ。記憶もまた、美しいメロディのようなものだと思わないか?」
憂の指がハーモニカに触れると、想起の間に漂う光の粒たちがざわめき始めた。まるで音に反応するように、記憶の光が波打つ。
「何をする気だ」
「ただの実演だよ。君たちに私の真の力を見せてあげようと思ってね」
憂が息を吹き込むと、哀愁を帯びた美しい旋律が響いた。だがその音色には、何か人の心を蝕むような毒々しさが混じっている。光の粒たちが激しく明滅し始め、一部の記憶が黒く染まっていく。
「やめろ!」
朔夜が影を放とうとした時、憂は既にハーモニカを唇から離していた。彼は満足そうに微笑むと、踵を返した。
「明日の夜、霞ヶ丘文化会館でコンサートがあるそうだね。私も参加させてもらうとしよう」
憂の姿が闇に溶けるように消えていく。朔夜は追いかけようとしたが、紬に腕を掴まれて止められた。
「朔夜様、記憶の光が……」
振り返ると、想起の間の記憶の光のいくつかが、まるで病に侵されたように鈍い輝きを放っていた。紬の顔は青ざめている。
「この記憶たち、誰のものかを調べる必要があります」
翌朝、朔夜は椿野老師の古書店を訪れた。老師は湯気の立つ茶を前に、深刻な表情で朔夜の話を聞いていた。
「音楽による記憶操作、か。厄介な能力を持った男だな」
「老師、黒羽憂が言っていた僕の本当の記憶というのは……」
「焦るでない。全ては時が来れば明らかになる」
老師の言葉は相変わらず曖昧だったが、その瞳の奥に宿る心配の色を朔夜は見逃さなかった。
夕刻、朔夜と紬は霞ヶ丘文化会館へと向かった。建物の周辺には多くの人々が集まっており、今夜のコンサートへの期待が感じられる。
「朔夜様、あの方たちの表情をご覧になってください」
紬の指差す方向を見ると、コンサートを待つ人々の顔に違和感があった。みな一様に虚ろな笑みを浮かべ、まるで何かに操られているかのような印象を受ける。
「もう始まっているのか……」
会館内部に入ると、既に大勢の観客が席に着いていた。朔夜たちは後方の席に座り、ステージを見つめる。やがて照明が落ち、スポットライトがステージ上の一点を照らした。
現れたのは黒羽憂だった。彼は燕尾服に身を包み、手にはあの小さなハーモニカではなく、美しく装飾されたグランドピアノの前に立っていた。
「皆様、今宴は特別な演奏会にお越しいただき、ありがとうございます」
憂の声が会場に響くと、観客たちは一斉に拍手を送った。その拍手の音は妙に揃いすぎており、不自然さを感じさせる。
「今夜、皆様には忘れられない夜をお過ごしいただきます。いえ、正確には……忘れる夜を、ですが」
憂の指がピアノの鍵盤に触れた瞬間、会場全体が異様な静寂に包まれた。そして美しくも禍々しいメロディが響き始める。
朔夜は即座に異変を感じ取った。観客たちの表情から生気が抜けていき、まるで人形のようになっていく。彼らの記憶が音楽によって操作され、削り取られているのだ。
「紬、みんなの記憶が……」
「ええ、音楽に合わせて記憶が剥がれ落ちています」
紬の声に震えが混じっている。朔夜は立ち上がろうとしたが、憂の演奏が激しさを増すにつれ、自分自身の記憶も曖昧になっていくのを感じた。
ピアノの音色が朔夜の脳裏に侵入し、大切な記憶を掻き回していく。紬との出会い、老師との修行、そして自分が影絵師として歩んできた道のり。全てが霞んでいく。
「これが……憂の真の力……」
朔夜は必死に意識を保とうとしたが、音楽の魔力は強力だった。周りの観客たちは完全に記憶を失い、虚ろな目でステージを見つめている。
その時、憂の演奏が一瞬止まった。彼はピアノから手を離し、朔夜を見つめて微笑んだ。
「どうだい、朔夜君。これが私の『憂鬱な調べ』だ。人々の記憶を自在に操り、必要とあらば完全に消去することもできる」
朔夜は震える手で影を呼び出そうとしたが、記憶が曖昧になった状態では能力をうまく制御できない。影絵として現れる映像も歪み、形を保てずにいた。
「君の能力は記憶に依存している。記憶が曖昧になれば、影絵師としての力も失われる。実に皮肉なことだと思わないか?」
憂が再びピアノに向かおうとした時、会場の扉が勢いよく開かれた。椿野老師が現れ、手に持った古い鈴を振る。その澄んだ音色が憂の音楽を打ち消していく。
「邪魔を……」
「朔夜よ、今のうちだ!」
老師の声に押され、朔夜は朦朧とする意識の中で影を放った。しかし憂は軽やかにピアノから飛び退き、朔夜の攻撃を回避する。
「今日はこの程度にしておこう。しかし朔夜君、君が自分の本当の記憶を思い出した時、果たして今と同じように戦えるだろうか」
憂の姿が再び闇に溶けて消えていく。残されたのは記憶を失った観客たちと、混乱の中に取り残された朔夜たちだった。
「朔夜様、大丈夫ですか」
紬の心配そうな声が聞こえる。朔夜は頭を振り、ぼんやりとした意識を取り戻そうとした。しかし憂の音楽によって揺さぶられた記憶は、完全には元に戻らなかった。
「老師、僕の記憶が……曖昧になっている」
「一時的なものじゃ。しかし厄介な敵だな。音楽による記憶操作とは、古の禁術の一つだ」
老師の表情は今までになく深刻だった。朔夜は自分の記憶の一部が失われたことで、影絵師としての能力にも影響が出ることを恐れた。
そして憂が最後に残した言葉が、朔夜の心に重くのしかかっていた。本当の記憶とは何なのか。それを知った時、自分はどう変わってしまうのだろうか。
会館を後にしながら、朔夜は空を見上げた。星々が瞬く夜空は美しかったが、その光すらも憂の音楽の残響のように、朔夜には歪んで見えるのだった。