深夜の闇に包まれた蒼のオフィスに、一人の女性が立っていた。ドアベルの音が響いてから既に十分は経っているだろうか。蒼は慎重にインターホンの映像を確認する。画面に映る女性は三十代前半に見え、白石美咲と似た面影を持っていた。
「申し訳ございません、こんな遅い時間に」女性の声は震えていた。「私、白石美咲の姉の真理子と申します。どうしても、お話ししたいことが」
蒼は一瞬躊躇した。美咲の自殺から二日。謎の電話、断片的な記憶の回復。そして今、美咲の姉と名乗る女性の突然の来訪。偶然にしては出来すぎている。しかし、彼女の涙声に偽りは感じられなかった。
重いセキュリティロックを解除し、蒼は扉を開けた。真理子は美咲よりも背が高く、より意志の強そうな顔立ちをしていたが、確かに姉妹の面影があった。黒いコートに身を包み、手には小さなハンドバッグを握りしめている。
「お忙しい中、申し訳ありません」真理子は深々と頭を下げた。「妹のことで、どうしてもお聞きしたいことがあるんです」
蒼は彼女を応接スペースに案内した。コーヒーを淹れながら、真理子の様子を観察する。緊張しているのは明らかだが、何か隠し事をしているような印象も受けた。
「美咲さんとは、どのような関係だったのでしょうか」真理子は蒼の顔を見つめて尋ねた。
「仕事上の関係です」蒼は慎重に言葉を選んだ。「詳細は守秘義務の関係でお話しできませんが、彼女の記憶に関する調査を行っていました」
真理子の表情が曇った。「やはり、そうだったんですね。妹は最近、おかしな症状に悩まされていました。記憶が曖昧になったり、現実と夢の区別がつかなくなったり」
「それは、いつ頃からですか」
「三ヶ月ほど前からです。最初は仕事のストレスかと思っていました。でも、だんだんひどくなって」真理子は手を震わせながら続けた。「妹は記憶技術の研究に携わっていたんです。バイオテック・インダストリーズの記憶工学部で」
蒼の背筋に冷たいものが走った。バイオテック・インダストリーズは記憶技術分野で最先端を行く企業の一つだが、同時に倫理的に問題のある実験を行っているという噂も絶えなかった。
「具体的には、どのような研究を」
「記憶操作技術の臨床応用です。PTSD患者の治療を目的とした記憶の編集や削除。でも、妹は最近、研究内容に疑問を持ち始めていました」真理子は声を落とした。「被験者の中に、同意なく記憶を操作された人がいるかもしれないと」
蒼の頭の中で、断片的な記憶が蘇った。美咲との面会。彼女の困惑した表情。そして、自分自身の記憶の曖昧さ。すべてが繋がり始めている。
「美咲さんは、その疑念を誰かに相談していましたか」
「はい。上司の佐藤部長に何度も質問していたようです。でも、はっきりとした回答は得られなかったと言っていました」真理子は立ち上がり、窓の外を見つめた。「そして、ある日突然、研究から外されたんです」
その時、蒼の携帯電話が鳴った。瑞希からの着信だった。
「すみません、少し失礼します」蒼は隣の部屋で電話に出た。
「蒼君、大変なことがわかったの」瑞希の声は興奮していた。「白石美咲のことを調べていたら、彼女の研究データにアクセス制限がかかっていることがわかった。それも、かなり高度なセキュリティで」
「どういうことだ」
「表向きは一般的な記憶治療研究よ。でも、暗号化されたファイルがいくつもある。解読できた部分だけでも、かなり危険な内容だった」
蒼は真理子の方を振り返った。彼女は不安そうにこちらを見つめている。
「詳細は後で聞く。今、美咲さんの姉が来ている」
「姉? 蒼君、気をつけて。美咲には姉はいないはずよ。戸籍を調べたけど、彼女は一人っ子だった」
瑞希の言葉に、蒼の血が凍った。応接室に戻ると、真理子はまだ窓の外を見つめていた。しかし、その姿勢に先ほどまでとは違う緊張感があった。
「失礼しました」蒼は何食わぬ顔で席に戻った。「ところで、美咲さんとはどの程度、頻繁にお会いしていたんですか」
「月に一度は必ず」真理子は振り返った。しかし、その目に一瞬、警戒の色が浮かんだ。「家族ですから」
「そうですね」蒼は慎重に言葉を選んだ。「美咲さんが研究で関わっていた被験者について、何かご存知のことはありますか」
「それは...」真理子は口ごもった。「詳しいことは聞いていません。ただ、妹が最後に言っていたのは、自分も被験者の一人だったかもしれないということでした」
蒼の心臓が早鐘のように打った。美咲が被験者だったとすれば、彼女の記憶操作は自らの研究の一環として行われた可能性がある。そして、もし真理子が本当に美咲の姉でないとすれば...
「真理子さん」蒼は慎重に切り出した。「失礼ですが、身分を証明できるものをお持ちでしょうか」
真理子の表情が一瞬で変わった。これまでの悲しみに暮れた姉の顔から、冷静で計算高い表情へと変貌した。
「やはり、気づかれましたか」彼女は小さく笑った。「さすが記憶探偵と呼ばれるだけのことはある」
「あなたは誰です」蒼は身を構えた。
「私の正体はそれほど重要ではありません」真理子、いや正体不明の女性は立ち上がった。「重要なのは、白石美咲の死が単なる自殺ではないということ。そして、あなたも彼女と同じ運命を辿る可能性があるということです」
「どういう意味だ」
「バイオテック・インダストリーズは表の顔に過ぎません。その背後には、記憶操作技術を悪用する組織が存在している」女性の声は低く、警告に満ちていた。「彼らは記憶を商品として扱い、人格を好きなように改変する。美咲はその実験台として利用され、そして口封じのために殺されたんです」
「なぜそんなことを私に話すんだ」
「あなたも標的だからです、雨宮さん」女性は蒼を見つめた。「あなたの記憶喪失は偶然ではない。あなたには知られてはいけない秘密があるから、記憶を奪われた」
蒼の頭の中で、様々な記憶の断片がざわめいた。自分の過去に隠された真実。美咲との関係。そして、記憶を奪った者たちの正体。
「その組織の名前は」蒼は震え声で尋ねた。
女性は微笑んだ。しかし、それは温かな笑顔ではなく、氷のように冷たい笑みだった。
「メモリア・シンジケート。記憶を支配し、人間の心を操る闇の組織です」彼女はハンドバッグから小さなデバイスを取り出した。「そして、彼らのリーダーは...あなたがよく知っている人物です」
蒼の記憶の奥底で、何かが蠢いた。懐かしくも恐ろしい影が立ち上がろうとしている。
「誰だ」
女性は答える代わりに、デバイスを作動させた。部屋に青い光が満ち、蒼の意識がゆっくりと遠のいていく。最後に聞こえたのは、女性の声だった。
「近いうちに、すべての真実が明かされるでしょう。その時まで、気をつけなさい、雨宮蒼」
蒼が気がつくと、オフィスには誰もいなかった。時計を見ると、午前三時を回っている。頭がぼんやりとして、先ほどの出来事が夢だったのか現実だったのか判然としない。しかし、テーブルの上に置かれた小さなメモリーチップが、すべてが現実だったことを物語っていた。
チップには「メモリア・シンジケートの真実」というラベルが貼られていた。蒼は震える手でそれを拾い上げた。ついに、自分の記憶喪失の謎を解く鍵を手に入れたのかもしれない。しかし同時に、これが更なる危険への入口であることも、直感的に理解していた。