山崎と名乗る男が立ち去った後、研究所内には重苦しい沈黙が流れていた。瑞希は端末の前で眉を寄せ、先ほどのシステム侵入者が残したデータの痕跡を追っている。蒼は窓際に立ち、灰色に曇った空を見上げながら、自分の記憶が人為的に操作されていたという事実を反芻していた。
外科手術のように精密に削除された記憶。それも一度ではなく、数年にわたって断続的に。一体誰が、何の目的で自分の記憶を奪い続けているのだろうか。そして、その記憶の中に何が隠されているというのか。
「蒼、少し休んだ方がいいんじゃない?」
瑞希の声が背後から聞こえた。振り返ると、彼女が心配そうな表情でこちらを見ている。
「大丈夫だ。それより、システムの解析はどうなった?」
「侵入者の正体は掴めていない。ただ、使用された手法がかなり高度で、相当な技術力を持った人物だということは分かる」瑞希は溜息をついた。「それに、あの山崎って人も気になる。内閣情報調査室なんて、普通の民間人が関わるような組織じゃない」
蒼もその点が引っ掛かっていた。記憶探偵という職業は確かに特殊だが、政府機関が直接接触してくるほどの案件に関わった覚えはない。少なくとも、自分が覚えている限りでは。
その時、研究所の受付から内線電話が鳴った。瑞希が応答すると、表情が険しくなった。
「分かりました、こちらに通してください」
電話を切った瑞希が振り返る。
「警察の人が来てる。田中刑事という方よ」
警察。蒼の胸に嫌な予感が広がった。記憶探偵として様々な事件に関わってきたが、警察から直接訪問を受けるというのは異例だった。
程なくして、研究所のドアが開き、五十代半ばと思われる男性が入ってきた。グレーの髪に深く刻まれた皺、鋭い眼光。長年の刑事経験を物語る風格があった。
「雨宮蒼さんですね。警視庁捜査一課の田中です」
男は警察手帳を提示しながら、蒼の顔をじっと見つめた。その視線には明らかに疑念が込められている。
「はじめまして。何かご用でしょうか?」
「単刀直入に聞きます。昨夜の午後十一時頃、あなたはどちらにいらっしゃいましたか?」
蒼は記憶を辿った。昨夜は自宅で過ごしていたはずだが、最近の記憶も曖昧になっていることがある。
「自宅にいました。なぜそんなことを?」
田中刑事は内ポケットから一枚の写真を取り出し、蒼の前に置いた。それは若い女性の顔写真だった。端正な顔立ちで、どこか憂いを帯びた表情をしている。
「この女性に見覚えはありますか?」
蒼は写真を見つめた。美しい女性だったが、見覚えはない。少なくとも意識的には。
「いえ、知らない方です」
「白石美咲さん、二十六歳。昨夜、港区のマンションで殺害されているのが発見されました」田中刑事の声が低く響いた。「現場からあなたの名刺が見つかっています」
蒼の血の気が引いた。殺人事件、そして現場から発見された自分の名刺。
「そんなはずは――」
「さらに、被害者の携帯電話には、あなたとのやり取りと思われる通話履歴が残されています。昨日の午後七時、約十五分間」
瑞希が息を呑む音が聞こえた。蒼は必死に記憶を辿ろうとしたが、昨日の午後七時に誰かと電話をした覚えはない。
「申し訳ありませんが、全く身に覚えがありません。名刺については、記憶探偵の仕事柄、様々な場所で配布していますし、通話履歴についても心当たりが――」
「記憶探偵」田中刑事が苦々しい表情を浮かべた。「最近はその手の胡散臭い商売が増えて困っている。記憶なんてものは曖昧で、簡単に改竄できる。そんなものを証拠として扱うなど、警察としては到底受け入れられない」
蒼は田中刑事の敵意を感じ取った。確かに、記憶可視化技術の普及により、従来の捜査手法は大きく変化を迫られている。古い世代の刑事にとって、記憶探偵という存在は脅威に映るのかもしれない。
「しかし、物的証拠は物的証拠です」田中刑事は写真を仕舞いながら続けた。「現在のところ、あなたは重要参考人として扱わせていただきます。近日中に正式な事情聴取を行いますので、身辺を整理しておいてください」
「待ってください」瑞希が割って入った。「雨宮さんは現在、記憶障害の治療中です。医学的な観点から見ても、彼の証言の信憑性には――」
「記憶障害?」田中刑事の目が鋭くなった。「それは都合がいいですね。犯罪の証拠隠滅には最適の口実だ」
「そんな」瑞希の顔が青ざめた。「医学的事実です。脳スキャンの結果も――」
「脳スキャンなんてものも、最近は偽造技術が進歩していると聞いている」田中刑事は立ち上がった。「いずれにせよ、捜査に支障をきたすような行為は控えていただきたい」
田中刑事が去ろうとした時、蒼が声をかけた。
「田中刑事、一つお聞きしたいことがあります」
刑事が振り返る。
「被害者の白石美咲さんは、何かの組織に関わっていましたか?記憶技術関連の仕事などに」
田中刑事の表情が一瞬強張った。
「なぜそんなことを聞く?」
「最近、記憶技術を巡って不審な動きがあるんです。もしかすると、この事件も――」
「憶測で物を言うな」田中刑事の声が荒くなった。「あなたがやるべきことは、自分の潔白を証明することだけだ」
そう言い残して、田中刑事は研究所を出て行った。残された二人は、しばらく沈黙していた。
「蒼、大丈夫?」瑞希が心配そうに尋ねた。
「正直に言うと、分からない」蒼は頭を抱えた。「自分の記憶が信じられない状況で、こんなことが起きるなんて」
瑞希は蒼の肩に手を置いた。
「きっと何かの間違いよ。あなたが人を殺すなんて、絶対にあり得ない」
蒼は瑞希の言葉に感謝しつつも、内心では不安が募っていた。記憶を操作されていたとすれば、自分が知らない間に何をしていたか分からない。もしかすると、本当に事件に関わっているのかもしれない。
その時、蒼の携帯電話が鳴った。画面には見慣れない番号が表示されている。
「はい、雨宮です」
「やあ、久しぶりだね、蒼」
電話の向こうから聞こえてきた声に、蒼の全身が凍りついた。この声に聞き覚えがある。確信は持てないが、どこか懐かしく、同時に恐ろしい響きを持っていた。
「君のことが新聞に載るかもしれないね。『記憶探偵、殺人容疑で聴取』なんて見出しはどうだろう?」
「誰だ、あなたは?」
「まだ分からないのかい?君の大切な記憶と一緒に、僕のことも忘れてしまったようだね」
電話の向こうで笑い声が響いた。それは悪意に満ちた、冷たい笑い声だった。
「白石美咲のことを調べれば調べるほど、君は深みにはまっていく。記憶を失った探偵が、自分の犯罪を追うなんて、なかなか興味深い構図じゃないか」
「何が目的だ?」
「目的?」再び笑い声。「君が全てを思い出したとき、きっと理解できるよ。それまでは、せいぜい楽しませてもらおう」
電話が切れた。蒼の手が震えていた。瑞希が心配そうに覗き込む。
「誰からの電話?」
「分からない」蒼は答えた。しかし、本当は分かっていた。いや、記憶の奥底で何かが囁いているのだ。この声の主を知っている、と。
窓の外では雨が降り始めていた。蒼は自分を取り巻く謎の輪が、さらに小さくなっていくのを感じていた。