記憶技術研究所の地下シェルターは、慌ただしい緊張感に包まれていた。メインスクリーンには都内各地の記憶関連施設の状況がリアルタイムで表示され、赤い警告表示が次々と点滅している。
「第三研究棟への侵入を確認。記憶解放戦線の構成員と思われる人物が記憶データベースにアクセスを試みています」
オペレーターの声が響く中、蒼は記憶ダイブ用のチェアに身を沈めていた。他の記憶探偵たちも同様に、それぞれの持ち場で記憶空間への潜行準備を進めている。
「蒼、少し話があるの」
振り返ると、瑞希が青ざめた顔で立っていた。普段の聡明な表情ではなく、何かに怯えるような、困惑したような表情を浮かべている。
「どうした?」
蒼は立ち上がり、周囲の喧騒から離れた場所へと瑞希を促した。研究所の廊下は非常灯の赤い光に照らされ、まるで血管の中にいるような錯覚を覚える。
「私の記憶が......変なの」瑞希は震える声で言った。「昨日まではっきりしていたはずの記憶が、急に曖昧になって。それどころか、全く違う記憶が頭に浮かんでくる」
蒼の表情が険しくなった。記憶の改竄──それは黒木が得意とする手法の一つだった。
「具体的には?」
「記憶解放戦線について研究していた記憶があるの。でも同時に、彼らに協力していた記憶も。どちらが本当なのかわからない」瑞希は頭を抱えた。「蒼、私がもし......もし敵側の人間だったとしたら?」
蒼は瑞希の肩に手を置いた。彼女の体が小刻みに震えているのがわかる。
「落ち着け。記憶の改竄は完璧じゃない。必ず矛盾や違和感が残る」
「でも、どちらが本物かわからないのよ。私は記憶解放戦線の研究をしていたの? それとも協力していたの? この技術を開発したのは、彼らを止めるため? それとも手助けするため?」
瑞希の瞳に涙が浮かんでいた。記憶こそが自分のアイデンティティだと信じてきた彼女にとって、その記憶が曖昧になることは存在そのものの否定に等しかった。
「瑞希、君の心はどう感じている?」蒼は静かに尋ねた。「記憶ではなく、今の君の感情は何を訴えかけている?」
「わからない......でも」瑞希は顔を上げた。「記憶解放戦線の行動を見ていると、胸が痛むの。彼らのやり方は間違っている気がする。でもそれが本心なのか、操作された感情なのか......」
その時、研究所全体に警告音が響いた。
「緊急事態発生! 記憶解放戦線の大規模攻撃が開始されました! 全記憶探偵は直ちに配置につけ!」
蒼は迷った。瑞希を一人にしておくのは危険だが、記憶戦争の最前線では彼の力が必要とされている。
「蒼、行って」瑞希が言った。「私のことは心配しないで。自分の記憶と向き合ってみる」
「危険すぎる。記憶の改竄が進行中なら──」
「だからこそよ」瑞希は意外にもしっかりとした声で答えた。「私が誰なのか、何のために研究してきたのか、今決めなければいけない。記憶に頼るんじゃなくて、自分の意志で」
蒼は瑞希の瞳を見つめた。そこには恐怖もあったが、同時に強い決意も宿っていた。
「わかった。でも無茶はするな」
「約束する」
蒼が記憶ダイブ装置に向かう中、瑞希は一人研究室に籠もった。モニターには彼女の脳波パターンが表示され、記憶領域への深いアクセスが始まっている。
記憶空間で、蒼は記憶解放戦線の構成員たちと対峙していた。彼らは組織的に動き、記憶データベースの重要な部分を破壊しようとしている。
「雨宮蒼!」
敵の一人が蒼を呼んだ。マスクで顔は隠れているが、その声には聞き覚えがあった。
「お前の大切な人が、我々の仲間だったとしたらどうする?」
蒼の動きが一瞬止まった。瑞希のことを言っているのか。
「桜庭瑞希博士は、記憶解放技術の真の開発者だ。彼女の記憶を改竄したのは君たちの方だろう?」
敵の言葉に、蒼の心が揺れた。しかし、記憶空間での戦闘に集中しなければならない。
その頃、瑞希は自分の記憶と格闘していた。研究室のモニターには、二つの相反する記憶映像が交互に表示されている。
一つは記憶解放戦線を危険視し、それを阻止する技術を開発している記憶。もう一つは戦線に共感し、技術の民主化を推進している記憶。
どちらも鮮明で、どちらも彼女の記憶のように感じられた。
「どちらが本物?」瑞希は呟いた。
しかし、記憶の詳細を注意深く観察していくうちに、わずかな違いに気づいた。記憶解放戦線に協力している記憶の方は、感情の起伏が不自然だった。喜びや怒りの感情が、まるで後から付け加えられたかのように浮いている。
一方、戦線を阻止しようとする記憶には、研究に対する純粋な情熱と、技術の悪用への恐れが自然に織り込まれていた。
「これが......本物の記憶」
瑞希は確信した。彼女は記憶解放戦線を止めるために研究していたのだ。そして今まさに、その技術が必要とされている。
彼女は急いで研究データにアクセスした。記憶改竄を検出し、修復する技術──それが彼女の真の研究成果だった。
「蒼、聞こえる?」瑞希は通信装置に向かって呼びかけた。
記憶空間で戦闘を続けていた蒼の耳に、瑞希の声が届いた。
「瑞希? 大丈夫か?」
「ええ。そして思い出した。私の本当の研究を。蒼、記憶改竄対策システムを起動する。記憶解放戦線が改竄した記憶を、元に戻すことができるわ」
瑞希の指が研究所のメインシステムを操作する。画面に複雑なプログラムコードが流れ、記憶修復システムが始動した。
「ただし」瑞希は続けた。「システムの起動には膨大なエネルギーが必要。研究所の防御システムを一時的に停止させなければならない」
それは大きなリスクを意味していた。防御システムが停止すれば、記憶解放戦線の物理的な侵入を許してしまう可能性がある。
「瑞希、それは危険すぎる」
「でも、これしか方法はない。記憶の改竄を放置すれば、もっと多くの人が苦しむことになる」
瑞希の声には迷いがなかった。自分の記憶と向き合い、真実を選択した彼女は、もう迷うことはなかった。
「わかった。やろう」蒼が答えた。「俺が物理的な防御を担当する」
「ありがとう、蒼」
瑞希がシステム起動のボタンに手をかけたその時、研究所に新たな侵入者の警報が鳴り響いた。記憶修復システムの始動と同時に、最後の戦いが始まろうとしていた。