夕暮れの東京スカイツリーが赤く染まる頃、雨宮蒼は一人でその頂上展望台に立っていた。メッセージは簡潔だった。『今夜八時。いつもの場所で。最後の話をしよう』差出人の名前はなかったが、蒼には分かっていた。
展望台の人影はまばらで、観光客たちが夜景に見とれている中、蒼だけが違う理由でここにいた。足音が近づく。振り返ると、黒いコートに身を包んだ黒木竜也が静かに歩いてきた。
「来てくれたんだな」
黒木の声は昔と変わらず穏やかだった。しかし、その瞳には深い疲労が宿っている。蒼は無言で頷き、二人は並んで東京の夜景を見下ろした。
「ここから見ると、街がまるで回路基板みたいに見える」黒木がぽつりと呟いた。「光の線でつながった無数の点。人間の記憶のネットワークとよく似ているな」
「お前はそのネットワークを壊そうとしている」蒼が応えた。声に非難の色はなく、ただ事実を述べているだけだった。
「壊すのではない。作り変えようとしているんだ」黒木は振り返り、蒼の顔をまっすぐ見つめた。「蒼、お前は記憶を取り戻した。あの日、瑞希があのお前に何をしたか、全部思い出したんだろう?」
蒼の胸に鈍い痛みが走った。実験台として扱われた日々、瑞希の冷たい視線、そして自分で選択した記憶の封印。すべてが鮮明に蘇っている。
「ああ、思い出した。すべてを」
「それでもまだ、彼女を信じるのか?」
黒木の声に僅かな苛立ちが混じった。蒼は静かに首を横に振る。
「信じるのではない。選ぶんだ」蒼は街の光を見つめながら続けた。「瑞希がしたことは許されることではない。でも、彼女は変わった。あの頃の彼女ではない」
「変わった?」黒木が苦笑した。「それが人工感情によるものだと知っていても?」
「人工だろうと本物だろうと、今の瑞希の感情は確かに存在する。そして俺は、その感情と向き合っている瑞希を選ぶ」
蒼の言葉に、黒木の表情が一瞬歪んだ。
「お前は甘すぎる。昔からそうだった」黒木は拳を握りしめた。「記憶操作技術がある限り、人間は真実を見失い続ける。愛も、憎しみも、すべてが人工的に作り出せる世界で、何が本物だと言えるんだ?」
「だからといって、すべてを破壊することが答えなのか?」
蒼が振り返ると、黒木の瞳に涙が光っていた。
「俺の妹を覚えているか、蒼?」
突然の問いに、蒼は言葉を失った。黒木の妹、美月。幼い頃よく三人で遊んだ、人懐っこい少女。
「美月は事故で記憶を失った。家族のことも、俺のことも、すべて忘れてしまった。医者は記憶を人工的に再構築することを提案した。技術的には可能だと」
黒木の声が震えていた。
「でも、それは本当に美月なのか?人工的に作られた記憶で笑う彼女は、俺の妹なのか?結局、両親はその道を選んだ。今の美月は幸せそうに笑っている。でも俺には分からない。あの笑顔が本物なのか、偽物なのか」
蒼は胸の奥が熱くなるのを感じた。黒木の痛み、その根源が見えてきた。
「だから俺は決めたんだ。この技術を根絶する。人工的な記憶も、感情も、すべてを消し去って、人間を本来の姿に戻す」
「それは美月の幸せも奪うことになる」蒼が静かに言った。
「偽りの幸せなど、幸せではない!」
黒木が声を荒げた。その瞬間、展望台にいた他の客たちが振り返ったが、すぐに視線を逸らした。
「お前にも分かるはずだ、蒼。記憶を失い、取り戻し、また失う。その苦しみを知っているお前なら」
蒼は深く息を吸い込んだ。確かに記憶の混乱は苦しかった。真実と虚偽の境界が曖昧になる恐怖も知っている。しかし―
「俺にも分からないことがある」蒼が口を開いた。「何が本物で何が偽物か、完璧に判断できる人間なんていない。でも、だからこそ人は選択するんじゃないか?」
「選択?」
「ああ。俺は瑞希の人工感情を知っている。でも、その感情に基づいて彼女が示す愛情や後悔を受け入れることを選んだ。それが正しいかどうかは分からない。ただ、俺はそれを選ぶ」
黒木が唇を噛んだ。
「美月だって同じだ。人工的な記憶であろうと、彼女が今感じている愛情や喜びは、彼女にとって真実だ。お前がそれを否定する権利があるのか?」
「しかし―」
「技術そのものは道具に過ぎない。問題はその使い方だ」蒼は黒木に向き直った。「お前のやり方では、救われる人もいるかもしれないが、傷つく人も多い。それは正義なのか?」
黒木は長い間沈黙した。風が二人の髪を揺らし、遠くでサイレンの音が響いた。
「俺たちは、結局平行線なんだな」黒木が苦笑した。「昔から、お前は俺とは違う答えを選んできた」
「竜也」蒼が初めて黒木の名前を呼んだ。「まだ遅くない。一緒に正しい道を探そう。技術を根絶するのではなく、適切に活用する方法を」
黒木は首を横に振った。
「もう後戻りはできない。俺の組織は既に動き出している。来月、東京の記憶技術研究施設すべてに同時攻撃を仕掛ける。記憶操作技術の中枢を完全に破壊する」
蒼の血が冷たくなった。
「瑞希の研究所も?」
「もちろんだ。あそこが諸悪の根源だからな」
「やめろ、竜也!そんなことをしても何も解決しない!」
「解決する」黒木の瞳に決意の炎が宿った。「技術がなくなれば、人は自分の記憶と向き合うしかない。痛くても、辛くても、それが人間らしさだ」
蒼は拳を握りしめた。説得は無駄だった。黒木の信念は岩のように固く、もはや誰にも動かせない。
「俺は止める」蒼が静かに宣言した。「お前を、そしてお前の計画を」
「そうか」黒木が悲しそうに微笑んだ。「やはり、俺たちは敵同士になってしまったな」
黒木が背を向けて歩き始める。蒼は追いかけようとしたが、足が動かなかった。
「蒼」黒木が振り返ることなく声をかけた。「俺たちの友情は本物だった。それだけは信じている」
そう言うと、黒木の姿は展望台の影の中に消えていった。
一人残された蒼は、拳を強く握りしめた。友情と使命の板挟みの中で、彼の心は引き裂かれそうだった。しかし、選択の時は既に来ていた。黒木を止めなければ、多くの無実の人々が巻き込まれる。
蒼は携帯電話を取り出し、田中刑事の番号を押した。呼び出し音の向こうで、東京の夜が静かに更けていく。運命の歯車が、再び動き始めようとしていた。