雨が止んだ夜の病院は、まるで静寂そのものが重たく沈殿しているかのようだった。廊下に響く足音さえ、どこか遠慮がちに聞こえる。私は田中刑事の病室を出てから、ずっとここにいた。手には彼が命がけで託してくれた記憶デバイスが握られている。
「蒼、大丈夫?」
瑞希が心配そうに声をかけてくる。私の顔色がよほど悪いのだろう。確かに、記憶混乱症候群の症状は悪化の一途を辿っている。時折、自分が誰なのかさえ曖昧になる瞬間がある。
「ああ。田中さんの記憶を確認しよう」
私たちは病院の一室を借りて、簡易的な記憶解析装置を設置した。佐藤が組織から持ち出してくれた機材だ。彼は黙々と配線を繋ぎながら、時折深いため息をついている。
「これで準備完了です」佐藤が振り返る。「田中刑事の記憶データ、相当大容量ですね。何か重要な情報を隠していたのでしょうか」
記憶デバイスをスロットに挿入すると、ディスプレイに映像が浮かび上がった。最初に現れたのは、田中刑事の若い頃の記憶だった。新人警官時代の彼が、街を歩いている。その表情は今よりもずっと無邪気で、正義感に満ち溢れている。
「これは...」
映像が変わった。二十年前の警視庁。まだ記憶技術が実用化される前の時代だ。そこに、見覚えのある男の姿があった。
「黒木だ」瑞希が呟く。
確かに、若い黒木竜也がそこにいた。警察官の制服を着て、田中刑事と肩を並べている。二人は笑顔で会話していた。親友同士だったのだ。
「田中刑事と黒木さんは、昔は同僚だったんですね」佐藤が驚きを隠せずにいる。
映像はさらに進む。記憶技術研究所の初期の頃。黒木が研究者として働いている姿が映し出される。彼の表情は真剣そのもので、人類のためになる技術を開発しようという純粋な思いが感じられた。
「いったい、何が彼を変えてしまったんだ」
私の問いに、映像が答えるかのように次のシーンに移った。研究所での実験事故。記憶操作実験の被験者が意識不明になってしまったのだ。黒木の顔が絶望に歪む。そして、その被験者こそが―
「俺だ」
ベッドに横たわっているのは、間違いなく少年時代の私だった。事故によって記憶を失った私を見つめる黒木の表情は、罪悪感と絶望で満ちていた。
「蒼...」瑞希が私の手を握る。「あなたの記憶喪失は、事故だったのね」
映像は続く。黒木が必死に私の記憶を回復させようとしている。何度も何度も実験を繰り返すが、結果は芳しくない。そして、ある日を境に、黒木の目つきが変わった。
「人の記憶なんて、所詮この程度のものなのか」
スピーカーから聞こえてくる黒木の声は、諦めと絶望に満ちていた。そして彼は、記憶そのものを軽視するようになっていく。記憶は操作できる。真実なんて主観的なものでしかない。そんな考えに取り憑かれていったのだ。
「これが組織設立のきっかけか」佐藤が苦々しく呟く。
しかし、田中刑事の記憶はここで終わらなかった。最も重要な部分は、つい最近のものだった。組織の内部構造、タブラ・ラサ計画の詳細、そして―
「これは...技術的な欠陥の記録だ」
画面に映し出されたのは、記憶操作技術の根幹部分に関する詳細なデータだった。田中刑事が独自に調査していた内容だ。
「なるほど」佐藤が興奮気味に説明し始める。「記憶操作技術には致命的な弱点があるんです。大規模な記憶改変を行う際、システム全体が一時的に脆弱状態になる。その瞬間を狙えば...」
「システムを停止させることができる」私が続きを言う。
「その通りです。タブラ・ラサ計画の実行時、組織の全システムがこの脆弱状態に陥る。逆説的ですが、彼らの野望が最も大きくなる瞬間こそが、最大の弱点なんです」
希望の光が見えてきた。だが、問題は山積している。
「実行まであと十八時間」瑞希が時計を確認する。「でも、蒼の記憶混乱症候群は...」
確かに、私の症状は深刻だ。時折、現実と記憶の境界が曖昧になる。このままでは、記憶探偵としての能力を十分に発揮できない可能性が高い。
「大丈夫だ」私は立ち上がった。「田中さんが命をかけて託してくれたものだ。必ず黒木を止める」
だが、内心では不安が渦巻いている。記憶を失った私と、記憶に絶望した黒木。私たちの因縁は、二十年前の事故から始まっていた。そして今、それを終わらせる時が来たのだ。
「蒼」瑞希が私を呼び止める。「田中刑事の記憶に、もう一つメッセージがあるわ」
画面に田中刑事の顔が映る。これは、彼が意識的に残したメッセージのようだ。
「雨宮。お前がこれを見ているということは、俺はもうこの世にいないかもしれん。だが、諦めるな。記憶は確かに曖昧で不完全だ。しかし、それでも人間にとって大切なものなんだ。痛みも、悲しみも、すべて含めてな。黒木はそれを忘れてしまった。だが、お前は違う。お前なら、きっと正しい道を見つけられる」
メッセージが終わると、病室に静寂が戻った。私たちは、それぞれの思いを胸に、来るべき最終決戦に向けて準備を始めた。
窓の外では、夜明けが近づいていた。東京の街並みが、薄っすらと明るくなり始めている。新しい一日が始まろうとしていた。そして、この一日が、すべてを決する日になるのだ。
「行こう」私は仲間たちに向かって言った。「黒木を、そして俺たちの過去に決着をつける時だ」