記憶研究所の薄暗い廊下を歩きながら、蒼は瑞希の手の温もりを感じていた。彼女の記憶を取り戻すことには成功したが、それは始まりに過ぎなかった。黒木の組織が仕掛けた真の脅威は、まだその全貌を現していない。
「蒼、こちらを見て」
瑞希が指差したのは、研究所の中央制御室に設置された巨大なモニターだった。そこには東京の夜景が映し出されていたが、よく見ると無数の光点が脈動している。
「これは何だ?」
「記憶操作装置の稼働状況を示すマップよ。一つ一つの光点が、現在進行形で記憶改竄を受けている人を表している」
蒼の血が凍りついた。画面上の光点は数千、いや数万に及んでいる。これほど大規模な記憶操作が同時進行で行われているとは。
「まさか、これだけの人数が...」
「ええ。でも、これはまだ実験段階。黒木の本当の目的はもっと恐ろしいものよ」
瑞希は震える指でキーボードを操作した。新たなウィンドウが開かれ、そこには『プロジェクト・タブラ・ラサ』という文字が浮かび上がった。
「タブラ・ラサ?」
「白紙の石版という意味。哲学者ジョン・ロックが提唱した概念で、人間は生まれた時は白紙の状態で、経験によって知識や人格が形成されるという考え方よ」
蒼は資料を読み進めながら、その内容に戦慄した。プロジェクトの目的は、社会全体の記憶を一度白紙に戻し、組織が用意した新たな記憶で書き換えることだった。
「これは...」
「人類全体の記憶を統制することで、完全な社会支配を実現しようとしているの。戦争も争いもない、完璧に管理された世界。でもそれは、人間が人間でなくなることを意味する」
モニターに新たな映像が現れた。黒木が巨大な地下施設で演説している光景だった。彼の背後には、巨大な記憶操作装置が稼働している。
「同志諸君」黒木の声が研究所内に響いた。「長い準備期間を経て、ついに我々の理想を実現する時が来た。人類は長い間、記憶という呪縛に苦しんできた。過去の痛み、憎しみ、絶望。これらすべてが争いの種となり、進歩を妨げてきた」
蒼は拳を握りしめた。黒木の言葉は一見正しく聞こえるが、そこには決定的な欠陥があった。
「しかし、我々が開発した技術により、人類は生まれ変わることができる。痛みのない、完璧な記憶を持つ新しい人類の誕生だ。明日の夜明けと共に、東京全域に記憶改竄波を放射する。まずは一千万人からスタートし、段階的に全世界に拡大していく」
「一千万人...」蒼は呟いた。「東京の人口とほぼ同じだ」
「そして、新しい記憶には我々への絶対的な忠誠が刻み込まれる。反抗心も疑問も持たない、理想的な市民の完成よ」
瑞希の顔が青ざめた。「装置の出力を見る限り、この計画は実行可能よ。記憶研究所のネットワークを通じて、都内に設置された全ての記憶関連施設が連動している」
蒼の携帯端末が鳴った。田中刑事からの着信だった。
「雨宮、大変だ。都内各所で原因不明の記憶障害が多発している。症状は軽度だが、パターンが酷似している。まるで誰かが意図的に...」
「テストですね」蒼は冷静に答えた。「黒木の組織が明日の本格実行に向けて、システムの最終調整を行っているんです」
「何だと?詳しく説明しろ」
蒼は田中に状況を簡潔に伝えた。電話の向こうで、田中の息を呑む音が聞こえた。
「なんてことだ...一千万人の記憶を一度に操作するなんて、そんなことが本当に可能なのか?」
「技術的には可能よ」瑞希が通話に割り込んだ。「記憶操作技術の集大成として、この施設が建設されているから。でも、これを阻止する方法もある」
「どうやって?」
「中央制御装置を破壊すること。でも、それには組織の本拠地に潜入する必要がある」
モニターの映像が切り替わり、地下施設の構造図が表示された。まるで巨大な要塞のような複雑な構造で、中心部に向かうほど厳重な警備が敷かれている。
「ここが黒木の本拠地...」蒼は画面を見詰めた。「記憶の迷宮の最深部に、真の支配装置が隠されている」
「侵入は自殺行為に等しい」瑞希が心配そうに言った。「記憶操作装置に直接暴露される危険性が高すぎる」
しかし、蒼の決意は揺らがなかった。自分の記憶を奪われ、瑞希を苦しめ、そして今度は一千万人の自由意志を奪おうとする黒木を、このまま野放しにはできない。
「田中さん、警視庁の特殊部隊を動員できますか?」
「記憶犯罪対策特別チームなら手配可能だ。だが、相手の規模を考えると...」
「時間がありません」蒼は時計を見た。「あと十二時間で、黒木の計画が実行される。我々にはもう選択肢がない」
瑞希が蒼の腕を掴んだ。「私も行く。記憶操作装置を無力化するには、専門知識が必要よ」
「危険すぎる」
「あなた一人で行く方が危険よ。それに...」彼女の目に強い意志が宿った。「これは私の戦いでもある。私が開発に関わった技術が悪用されているのだから」
蒼は瑞希の目を見つめ、そこに自分と同じ決意を見た。彼女もまた、人間の尊厳を守るために戦う覚悟を固めていた。
「分かりました。しかし、最前線は私が担います。あなたは技術的サポートに徹してください」
「約束する」
その時、研究所の非常警報が鳴り響いた。モニターに新たな映像が現れ、そこには黒服の男たちが建物を包囲する様子が映っていた。
「見つかったか」蒼は呟いた。
「後部出口から脱出しましょう」瑞希が立ち上がった。「車を用意してある」
二人は研究所を後にし、夜の東京へと消えていった。明日の夜明けまでに、人類の自由意志を守る戦いを終わらせなければならない。黒木との最終決戦が、ついに始まろうとしていた。
街の向こうに、不気味に光る地下施設の輪郭が見えた。そこで、運命の全てが決まる。