記憶の迷宮が崩れ去った瞬間、蒼は現実世界に引き戻された。研究所の白い天井が視界に映り込み、頭部に装着された記憶可視化装置の重みを感じる。ゆっくりと身を起こすと、瑞希が心配そうな表情で見つめていた。
「蒼、大丈夫? 随分長い間意識を失っていたわ」
「どのくらい?」
「三時間よ。記憶の深層部まで潜っていたから、脳波が異常な数値を示していた」
蒼は額を押さえた。頭の奥で鈍い痛みが脈打っている。取り戻したはずの記憶が、まるで靄のように曖昧で掴みどころがない。美咲の顔、黒木との友情、そして別れの場面──すべてが本当に起こったことなのだろうか。
「瑞希、記憶の真偽を判定する方法はあるのか?」
「真偽?」瑞希は眉をひそめた。「取り戻した記憶に疑問を感じているの?」
「分からないんだ。あまりにも鮮明すぎる。まるで映画を見ているような……」
蒼は立ち上がり、窓辺に向かった。夕暮れの東京が広がっている。高層ビル群の間を縫って飛行する自動車が、光の軌跡を描いていた。この景色は確実に現実だ。しかし、先ほど体験した記憶はどうだろう。
「記憶操作技術が発達した現在、偽の記憶を植え付けることは理論上可能よ」瑞希が慎重に言った。「でも、あなたが体験したのは自然に封印されていた記憶の解放。人工的な操作とは違うはず」
「本当にそうだろうか」
蒼の声には確信がなかった。黒木の記憶操作技術の巧妙さは、これまでの捜査で嫌というほど思い知らされている。第8話で遭遇した被害者の記憶──あれも本人が真実だと信じ込んでいた偽の記憶だった。その精巧さは、本物の記憶と見分けがつかないほどだった。
「もしあの記憶が偽物だとしたら」蒼は振り返った。「俺は一体何者なんだ?」
瑞希の表情が曇った。「蒼……」
「考えてみろ。俺の記憶喪失のタイミングは余りにも都合が良すぎる。黒木と決定的に対立した直後、美咲を失った直後。まるで誰かがシナリオを書いたみたいに」
蒼は自分の手を見つめた。この手が確かに自分のものであることすら、急に曖昧に感じられる。記憶が人格を形作るのなら、偽の記憶で構築された人格とは何なのか。
「田中刑事に確認してみよう」瑞希が提案した。「あなたの事故当時の記録が残っているはず」
二十分後、田中刑事が研究所にやってきた。彼の表情はいつもより深刻だった。
「雨宮の事故の件だが、実は妙な点があるんだ」
「妙な点?」
「事故現場の監視カメラの映像が、なぜか消去されている。通常なら一ヶ月は保存されるはずなのに、事故の三日後に突然データが消えた」
蒼と瑞希は顔を見合わせた。
「それだけじゃない。病院の診察記録も一部が欠損している。まるで誰かが意図的に証拠を隠滅したような痕跡がある」
「つまり、俺の事故は偶然ではなく……」
「計画的な可能性が高い。そして」田中刑事は声を低めた。「黒木竜也の行方を調べていたら、興味深い事実が判明した。彼は事故の前日、とある記憶技術の専門家と接触していた」
蒼の血の気が引いた。すべての点が線でつながり始める。黒木は美咲を失った痛みから、友人だった蒼への憎悪を募らせ、最も残酷な復讐を企てたのではないか。記憶を奪い、偽の記憶を植え付け、蒼のアイデンティティそのものを破壊する復讐を。
「でも、なぜ俺を記憶探偵にした?」
「おそらく皮肉だろう」田中刑事が苦い表情で答えた。「記憶を失った男が、他人の記憶を探る仕事に就く。黒木らしい悪趣味だ」
蒼は壁にもたれかかった。足元が崩れていくような感覚に襲われる。これまで築いてきた人間関係、瑞希への愛情、記憶探偵としてのプライド──すべてが砂上の楼閣だったのか。
「蒼」瑞希が近づいてきた。「たとえ記憶が曖昧でも、あなたはあなたよ。私たちが共に過ごした時間は確実に存在する」
「だが、その時間を過ごした『俺』が偽物だとしたら?」
蒼の声は震えていた。自分という存在の根幹が揺らいでいる。記憶が人格を形作るなら、偽の記憶で構築された人格に何の価値があるのか。
「記憶の真贋なんて、もはや重要じゃない」瑞希が強い口調で言った。「大切なのは、今のあなたがどう生きるかよ」
しかし蒼の心は混乱の渦に飲み込まれていた。研究所の蛍光灯の光が妙に眩しく感じられ、瑞希の声も遠くから聞こえてくるようだった。
その時、蒼の携帯端末に着信があった。発信者不明。画面に映し出された男の顔を見て、蒼は息を呑んだ。
黒木竜也だった。
「久しぶりだな、蒼。いや、『蒼』と呼ぶべきか?」
画面の向こうの黒木は、薄気味悪い笑みを浮かべていた。
「記憶を取り戻したようだが、その記憶が本物だと信じているのか? 愚かだな。お前が体験したのは、俺が精巧に作り上げた偽の記憶だ」
「嘘だ」
「嘘? 確かめてみればいい。美咲という女性は確かに存在した。だが、お前が『思い出した』彼女との関係は、すべて俺の創作だ。本当の美咲は、お前のことなど眼中になかった」
蒼は端末を握る手が震えるのを感じた。
「なぜそんなことを……」
「復讐だ。お前が美咲を奪おうとした報いだ。記憶を失った哀れな男に偽の過去を与え、それに依存させる。そして真実を突きつける時の絶望を味わわせる──これほど完璧な復讐があるだろうか」
通信が切れた。研究所に重苦しい沈黙が降りた。
蒼は床に膝をついた。自分が何者なのか、もはや分からない。本当の記憶なのか、偽の記憶なのか。その境界が完全に曖昧になってしまった。
「蒼!」瑞希が駆け寄った。
しかし蒼の意識は既に混乱の深淵に落ちていた。記憶の真贋という問題は、単純に過去の出来事の真偽を問うものではなかった。それは自分という存在の根本的な意味を問う、もっと深刻な問題だったのだ。
果たして、偽の記憶で構築された人格に、生きる価値はあるのだろうか──。