深夜の警視庁は静まり返っていた。蛍光灯の青白い光だけが、捜査一課のフロアを照らしている。田中刑事は自分のデスクに座り、手元のタブレット端末を見つめていた。画面には、息子・健太の遺体発見時の写真が映し出されている。

 「健太……」

 三年前のあの日から、田中の心に空いた穴は埋まることがなかった。記憶を奪われ、人格を破壊されて発見された息子。犯人は記憶操作技術を悪用した組織だということは分かっていたが、手がかりは途切れたまま時だけが過ぎていった。

 タブレットを閉じ、田中は立ち上がった。胸ポケットから煙草を取り出しかけて、禁煙を思い出す。妻に約束したのだ。健太のためにも、もっと長生きしろと言われて。

 廊下の向こうから足音が聞こえてきた。夜勤の警備員だろう。田中は窓の外を見つめた。東京の夜景が広がっているが、今の彼にはどこか薄暗く感じられる。

 「雨宮のやつ、無事でいてくれよ」

 つぶやいてから、田中は自分の感情の変化に驚いた。最初は記憶探偵という存在を疎ましく思っていた。科学技術に頼り切った捜査手法に、古い刑事としてのプライドが許さなかった。だが今では、蒼のことを心から心配している自分がいる。

 デスクの引き出しを開け、田中は一枚の写真を取り出した。警察学校を卒業したばかりの若い自分と、同期たちとの記念写真。その中に、若き日の桜井教授の姿があった。当時から記憶に関する研究に没頭していた彼が、まさかこんな形で事件に関わることになるとは思わなかった。

 携帯電話が震えた。画面を見ると、非通知番号からの着信だった。こんな時間に誰だろうと思いながら、田中は通話ボタンを押した。

 「はい、田中です」

 「お疲れさまです、田中さん」

 聞き覚えのある声だった。記憶探偵事務所の受付をしている佐藤だ。

 「佐藤君? こんな夜中にどうした」

 「実は、雨宮さんからの連絡が途絶えて二日になります。最後に『危険な場所に向かう』という連絡があっただけで……」

 田中の胸に嫌な予感が走った。蒼の性格を考えれば、黒木の罠だと分かっていても、人質になった瑞希や収容者たちを見捨てることはできないだろう。

 「場所の心当たりはあるのか?」

 「はい、調べました。廃工業地帯の倉庫街に、不審な施設があるという情報を掴んでいます。座標をお送りします」

 田中のスマートフォンに位置情報が送られてきた。地図を確認すると、都心から車で一時間ほどの場所だった。

 「分かった。ありがとう」

 通話を切ってから、田中は立ち上がった。正式な捜査令状を取る時間はない。だが、息子の仇に関わる組織がそこにいるなら、一刻も早く行動を起こす必要がある。

 ロッカーから防弾ベストを取り出し、拳銃の弾倉を確認する。久しぶりに血が騒いでいた。刑事になりたての頃の、正義感に燃えていた自分を思い出す。

 地下駐車場に向かい、パトカーのキーを手に取った。無線を切り、証拠隠滅を図る組織に気づかれないよう細心の注意を払う。エンジンをかけながら、田中は妻の顔を思い浮かべた。今夜のことは話せないだろう。心配をかけたくない。

 都心を抜け、高速道路に入る。深夜の道路は空いており、パトカーは静かに闇を切り裂いて進んでいく。田中の脳裏には、息子との最後の会話が蘇った。

 「お父さん、僕も将来は刑事になりたいな」

 当時高校生だった健太の無邪気な笑顔。それが記憶操作の実験台にされ、人格を破壊されて発見された時の衝撃は、今でも田中の心を支配している。

 廃工業地帯に入ると、街灯の間隔が広くなった。月明かりだけが頼りの薄暗い道を進んでいく。目的の座標に近づくにつれ、田中の心拍数が上がってくる。

 倉庫街の一角で車を止め、田中は周囲を観察した。表向きは廃墟のような建物だが、よく見ると新しい監視カメラが設置されている。地下に施設があるのかもしれない。

 車から降り、拳銃の安全装置を外す。夜風が頬を撫でていく。遠くで野良猫の鳴き声が聞こえた。

 建物の裏手に回ると、地下への入り口らしき扉を発見した。電子ロックが施されているが、古い型のものだ。田中は昔覚えた解錠技術を使い、慎重に扉を開けた。

 地下に続く階段が現れる。足音を殺して降りていくと、微かに人の声が聞こえてきた。組織のメンバーが会話をしている。田中は息を殺し、慎重に近づいた。

 「雨宮の処理はどうする?」

 「ボスの判断待ちだ。記憶を全て抜き取ってから始末する予定だったが」

 健太の仇がそこにいる。田中の手が震えた。三年間待ち続けた復讐の機会が、ついに訪れたのだ。

 だが、蒼と瑞希、そして収容者たちの安全を考えなければならない。感情のままに突っ込んでは、全てを台無しにしてしまう。田中は深呼吸をし、冷静さを保とうとした。

 通路の角から様子を窺うと、警備員が二人、監視室のような場所にいる。モニターには施設内の様子が映し出されており、その中に蒼の姿も確認できた。まだ生きている。

 田中は携帯電話を取り出し、録画機能をオンにした。証拠を残しておかなければならない。同時に、GPSで現在地を警視庁のサーバーに送信する。万が一のことがあっても、後続の捜査班がここに来られるように。

 警備員の一人が席を立ち、別の場所へ向かった。チャンスだ。田中は残った警備員に近づき、後ろから拳銃を突きつけた。

 「動くな。警察だ」

 警備員は振り返ろうとしたが、田中がさらに銃口を押し付ける。

 「収容者はどこにいる?」

 「し、知らない……」

 「嘘をつくな。息子を殺された父親の怒りを甘く見るなよ」

 田中の声には、三年間溜め込んだ怒りが込められていた。警備員は震え上がり、施設の構造を白状し始めた。地下三階に収容室があり、蒼は地下二階の実験室にいるという。

 警備員を手錠で拘束し、田中は施設の奥へ進んだ。途中で何人かの組織メンバーと遭遇したが、長年の経験で培った戦闘技術を駆使して制圧していく。

 地下二階に到達した時、爆発音が響いた。田中の破壊工作により、施設の電源系統に異常が発生したのだ。非常灯が点灯し、赤い光が廊下を照らす。

 混乱に乗じて、田中は収容室のロックを次々と解除していく。記憶を奪われ、呆然とした表情の人々が部屋から出てきた。その中に桜井教授の姿も確認できる。

 「教授、しっかりしてください」

 桜井教授は田中の顔を見て、かすかに意識を取り戻した。

 「た、田中君……なぜここに」

 「説明は後です。まず安全な場所まで」

 田中は収容者たちを誘導しながら、蒼のいる実験室を目指した。施設内は完全に混乱状態となり、組織のメンバーたちは対応に追われている。

 実験室の扉の前で、田中は足を止めた。中から黒木の声が聞こえてくる。

 「雨宮、君の友人が随分と派手にやってくれたようだ。だが、これで君の運命は決まった」

 田中は扉に爆薬を仕掛け、遠くから起爆した。爆風と共に扉が吹き飛び、煙が立ち込める中を突入していく。

 「田中刑事!」

 蒼の驚いた声が聞こえた。彼は実験台に拘束されているが、まだ意識ははっきりしている。

 黒木は拳銃を構え、田中と対峙した。

 「邪魔をするな、刑事。これは君には関係のない話だ」

 「関係ないだと?」田中は怒りを込めて言った。「お前らが俺の息子を殺したんだ。十分関係がある」

 息子の仇を前にして、田中の中で何かが弾けた。三年間抑え込んできた感情が一気に溢れ出す。だが同時に、蒼を救わなければという使命感も燃え上がっていた。

 銃声が響いた。そして、すべてが始まろうとしていた。

記憶探偵と消えた昨日

21

田中の決死行

水無月透

2026-04-10

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第21話 田中の決死行 - 記憶探偵と消えた昨日 | 福神漬出版