研究所のセキュリティルームに設置された巨大なモニターには、無数の警告メッセージが踊っていた。瑞希の指がキーボードを叩く音だけが、張り詰めた空気の中に響く。
「侵入者の痕跡を辿れるか?」
蒼の問いに、瑞希は振り返ることなく答えた。
「プロの仕事ね。でも完璧じゃない。必ず痕跡は残るはず」
田中刑事は腕組みをしたまま、モニターを睨んでいた。息子・大樹の研究資料が狙われたという事実が、彼の心に重くのしかかっているのが蒼には分かった。
「あった」
瑞希の声に、二人の男が身を乗り出す。画面には複雑なデータフローが表示され、その中に一つの異常な経路が赤く光っていた。
「侵入者は単純にデータを盗むだけじゃなかった。蒼君の記憶データに何かを仕込んでいる」
蒼の背筋に冷たいものが走る。自分の記憶が、また何者かに操作されているのか。
「どんな仕込みだ?」
「分からない。でも、これは……」瑞希が顔を青ざめさせる。「記憶の奥底に埋め込まれた、起動コードのようなものね。特定の条件が揃うと発動するように設定されている」
田中刑事が舌打ちをする。
「大樹を廃人にした連中の仕業か」
その時、研究所全体に警報が鳴り響いた。非常灯が赤く明滅し、自動音声がセキュリティ侵入を告げる。
「まさか、まだ侵入者が?」
瑞希が監視カメラの映像を切り替える。研究所のエントランスホールに、一人の男が立っていた。黒いスーツに身を包み、落ち着き払った様子でカメラを見上げている。
蒼の心臓が激しく鼓動した。その顔に見覚えがある。いや、正確には見覚えがあるような気がするのだ。記憶の霧の向こうから、何かが蘇ろうとしている。
「あの男は……」
男がゆっくりと笑みを浮かべ、カメラに向かって手を振った。まるで、この映像を見ている蒼に向けたメッセージのように。
「知り合いか?」田中刑事が緊張した声で尋ねる。
蒼は首を振ったが、胸の奥で何かが疼いていた。懐かしさと恐怖が入り混じった、説明のつかない感情。
インターホンが鳴り、男の声が響いた。
「雨宮蒼、聞こえているだろう。久しぶりだな」
蒼の全身が震えた。その声を、確かに知っている。だが、いつ、どこで聞いたのかは思い出せない。
「君が忘れてしまったのは仕方がない。私の方は、君のことをよく覚えているよ。私たちが共に過ごした、あの美しい日々を」
瑞希が蒼の顔を見る。
「蒼君、本当に知り合いなの?」
「分からない。でも……」
男の声が続く。
「私の名前は黒木竜也。君にとって、最も大切だった友人だ。そして今は、君にとって最も危険な敵でもある」
黒木竜也。その名前を聞いた瞬間、蒼の脳裏に断片的な映像が浮かんだ。研究室で肩を並べて実験に励む二つの影。深夜まで記憶技術について語り合う若い研究者たち。そして、何かが決定的に壊れた瞬間の、激しい痛み。
「思い出してきたようだね、蒼」
まるで蒼の心を読んでいるかのように、黒木の声が響く。
「君は私たちの研究に反対した。記憶操作技術の軍事利用に反対し、私を止めようとした。そして私は、君にあの処置を施すことになった」
蒼の頭に激痛が走る。記憶の扉が無理やり開かれようとするような、耐え難い痛み。
「やめろ」蒼が呟く。
「君の記憶喪失は事故じゃない。私が君の記憶を消したんだ。親友としての思い出も、私たちの研究も、そして君が私を止めようとした理由も、すべて」
田中刑事が拳を握りしめる。
「この野郎、大樹にしたのと同じことを……」
「でも不完全だった」黒木の声に、わずかな後悔が混じる。「君への想いが、私の手を鈍らせた。だから君は生き残り、記憶探偵として新たな人生を歩むことができた」
蒼は壁に手をついて身体を支える。記憶の断片が激流のように押し寄せてくる。黒木竜也――親友だった男。共に理想を語り、共に未来を夢見た仲間。そして今は、記憶を操作する闇組織のリーダー。
「君に提案がある、蒼」黒木の声が再び響く。「私と会わないか。すべてを思い出させてあげよう。君が忘れた過去を、私たちの友情を、そして君が本当は何者だったのかを」
瑞希が蒼の腕を掴む。
「行っちゃダメ。それは罠よ」
だが蒼の心は激しく揺れていた。自分の失われた記憶、空白の過去への渇望。そして、親友だったかもしれない男への、複雑な感情。
「今夜、東京湾の倉庫街で待っている。住所は君の携帯に送った。一人で来い」
通信が途切れ、警報も止まった。研究所に再び静寂が戻る。
蒼の携帯が震え、メッセージが届いた。倉庫の住所と、短い言葉が添えられていた。
『真実を知りたければ来い。――竜也より』
蒼は携帯を握りしめたまま、窓の外の夜景を見つめた。2035年の東京の灯りが、まるで無数の記憶の破片のように瞬いている。
田中刑事が重い口調で言った。
「行くつもりか」
「分からない」蒼が正直に答える。「でも、このままでは何も解決しない」
瑞希が蒼の前に立ちはだかる。
「絶対に一人で行かせない。私も一緒に行く」
「瑞希……」
「あなたは一人じゃない。私たちがいる」
田中刑事も頷く。
「大樹の仇でもある。俺も同行させてもらう」
蒼は二人の顔を見つめた。失われた記憶の代わりに、新しい絆がここにある。黒木竜也がどんな真実を語ろうとも、この絆だけは本物だ。
東京の夜が深くなっていく。運命の再会まで、あと数時間。蒼の心に、恐怖と期待が渦巻いていた。