新たに開かれた扉の向こうから、淡い光が図書館の奥を照らしていた。陽菜は青年の姿となった虚無の収集家——もはや彼をそう呼ぶのは相応しくないかもしれない——の横顔を見つめた。改心したとはいえ、その瞳の奥にはまだ深い悲しみが宿っている。
「君の本当の名前は何というの?」
陽菜の問いかけに、青年は少し驚いたような表情を見せた。
「名前……」彼は自分の手のひらを見つめる。「もう覚えていない。忘れられた記憶の集合体となってから、あまりに長い時が過ぎた」
「では、新しい名前をつけましょう」晴明が提案した。「過去を背負いつつも、新たな道を歩むための名を」
北斎が筆を宙に走らせながら言った。「そうだな。記憶を司る存在として、相応しい名前がいい」
「記憶……思い出……」エジソン明治が思案深げに呟く。「『憶人(おくと)』というのはどうでしょう。記憶を憶える人という意味で」
青年——憶人は、その名前を口の中で転がすように繰り返した。
「憶人……悪くない。いや、とても良い響きだ」
陽菜は安堵の表情を浮かべた。しかし、憶人の痛みが完全に癒えたわけではないことを感じ取っていた。彼の周囲には、まだ暗い記憶の断片が漂っている。
「憶人さん」陽菜は一歩近づいた。「あなたの痛みを、もう少し聞かせてもらえませんか?」
憶人は戸惑ったような表情を見せる。
「痛み? もう過去のことだ。君たちが示してくれた希望によって、私は新しい道を見つけた」
「でも」陽菜は首を振る。「心の傷は、希望だけでは癒えない。まずはその傷を、しっかりと見つめる必要がある」
憶人の表情が曇る。図書館の空気が重くなったのを、仲間たちも感じ取った。
「君に迷惑をかけることはできない。私の痛みは私が背負うべきものだ」
「いいえ」陽菜は首を振り、憶人の手を優しく取った。「痛みを一人で抱え込むから、あなたは道を誤ってしまった。今度は、私たちと一緒にその痛みを見つめましょう」
憶人の手は冷たく、震えていた。長い孤独の中で凍りついた心は、簡単には温まらない。
「陽菜の言う通りです」晴明が静かに言った。「癒しとは、傷を隠すことではない。傷と向き合い、それを受け入れることから始まる」
北斎も筆を止めて振り返る。
「俺だって、絵に行き詰まって苦しんだ時期がある。一人で悩んでいても答えは出なかった。誰かと分かち合うことで、初めて新しい道が見えたんだ」
エジソン明治も頷く。
「発明は失敗の連続です。一人では諦めてしまいそうな時も、仲間がいることで立ち上がることができる」
憶人は仲間たちの言葉を聞きながら、ゆっくりと頷いた。
「分かった。君たちがそこまで言うなら……」
彼は深く息を吸い、目を閉じる。すると、図書館の空間に彼の記憶が映し出され始めた。
最初に現れたのは、一人の少年の姿だった。古い時代の衣装を身にまとい、巻物を抱えて走っている。
「これは……私が人間だった頃の記憶だ」憶人が呟く。「私は記録係として、大切な文書を保管する仕事をしていた」
映像の中で、少年は戦火の中を必死に駆け抜けている。抱えた巻物を守りながら、安全な場所を求めて走り続ける。
「しかし」憶人の声が震える。「戦乱の中で、私は力尽きた。大切な記録を守ることができずに……死んでいった」
映像が変わる。少年が倒れ、巻物が燃え上がる炎に包まれていく。
「私の死と共に、多くの記憶が失われた。人々の営み、知恵、想い……すべてが灰になってしまった」
陽菜の胸が締め付けられた。彼の痛みの根源が見えてきた。
「それで、あなたは記憶を守れなかった自分を責め続けていたのですね」
「そうだ」憶人は項垂れる。「私は無力だった。だからこそ、いっそすべての記憶を消し去ってしまえば、失う痛みも感じずに済むと思った」
晴明が静かに言った。
「しかし、君は死後も記憶を守ろうとし続けた。それは決して無力などではない」
「でも結果は……」
「結果よりも、その想いが大切なのです」陽菜は憶人の手を両手で包んだ。「あなたの願いは確実に受け継がれている。今、この図書館があるのも、あなたのような人たちの想いがあったからです」
憶人は陽菜を見つめた。彼女の瞳には、温かな光が宿っている。
「君は……本当に優しいのだな」
「優しいのではありません」陽菜は微笑む。「あなたの痛みが、私にもよく分かるのです。大切なものを守りたい、でも力が足りない。その無力感は、私も感じていました」
陽菜の言葉に、憶人の表情が少しずつ和らいでいく。
「でも、一人では無力でも、みんなと一緒なら守れることがある。あなたの想いも、決して無駄ではありませんでした」
その時、図書館の奥で開かれた扉から、より強い光が放たれた。憶人の記憶が浄化されていくように、暗い影が薄れていく。
「これは……」憶人が驚く。
「あなたの心の扉が開かれたのです」晴明が説明した。「長い間閉ざされていた、癒しへの扉が」
北斎が嬉しそうに筆を振る。
「いい絵が描けそうだ。心が軽やかになる瞬間ってのは、何度見ても美しい」
エジソン明治も機械を取り出しながら言った。
「この光のエネルギーを計測してみましょう。きっと素晴らしいデータが取れるはずです」
憶人は仲間たちの様子を見て、初めて心から笑った。
「君たちは本当に面白い人たちだな。時代も立場も違うのに、こんなにも自然に一緒にいられるとは」
「それが時層図書館の力です」陽菜が答える。「ここでは、すべての時代の人々が繋がることができる。記憶が橋となって、心を結んでくれるのです」
憶人は改めて図書館を見回した。無数の本棚、時代を繋ぐ扉、そして温かな光に満ちた空間。
「私も、この図書館の一部になることができるだろうか?」
「もちろんです」陽菜は即座に答えた。「あなたは既に、私たちの大切な仲間です」
その瞬間、奥の扉がさらに大きく開かれ、新しい空間が姿を現した。そこは記憶の庭とでも呼ぶべき、美しい光景が広がっていた。
「まだ冒険は続くのですね」陽菜が呟く。
「ああ」憶人が力強く頷く。「今度は、破壊ではなく創造の旅だ」
五人の守人たちは、新たな扉の向こうへと歩を進めた。癒された心と、固い絆を胸に。