記憶の光が図書館を満たし、時喰いたちが浄化されていく中、ただひとり変わらずに立っているものがあった。虚無の収集家の真の姿――それは、光の中でより深い闇として際立つ存在だった。
「ようやく、あなたと直接話せますね」
陽菜は静かに歩み出た。時結印の力がまだ体を巡っているのを感じながら、彼女は虚無の収集家と向き合う。
その姿は、彼女が想像していたものとは大きく違っていた。威圧的な闇の化身ではない。むしろ、どこか疲れ果てた人間のような――いや、かつて人間だったもののような佇まいを見せていた。
「直接話す、か」虚無の収集家は苦笑を浮かべた。「記憶の守人よ、君は私に何を語りかけるつもりだ? 記憶の大切さを説く? それとも過去を否定することの罪深さを諭すか?」
「いえ」陽菜は首を振った。「まず、あなたの痛みを知りたいのです」
その言葉に、虚無の収集家の表情が僅かに揺らいだ。
「痛み、だと?」
「はい。これほどまでに記憶を憎み、全てを無に還そうとするのには理由があるはずです。きっと、あなたも誰かの記憶を大切にしていた時があったのでしょう?」
図書館の空気が静まり返る。晴明、北斎、エジソン明治の三人も、息を詰めてこの対話を見守っていた。
虚無の収集家は長い沈黙の後、口を開いた。
「そうだ。私にも、守りたい記憶があった」
彼の周囲の闇が揺らぎ、その奥からかすかに映像のようなものが浮かび上がった。ある時代の街並み、笑顔を浮かべる人々、そして一人の女性の姿。
「だが、その記憶は歪められ、美化され、真実から遠ざかった。時が経つにつれ、大切な人の本当の姿は忘れられ、都合の良い物語へと変えられていった。記憶とは結局、欺瞞に過ぎない」
晴明が一歩前に出た。
「それは記憶そのものの罪ではあるまい。記憶を歪める者たちの問題であろう」
「違う」虚無の収集家は強く首を振った。「記憶とは、存在するだけで変質し、劣化し、嘘となる。ならば最初から、何も残さない方が良い。完全な無こそが、完全な真実だ」
「それは逃避よ」
今度は北斎が口を開いた。
「儂も数多の作品を描いてきたが、どれも完璧ではない。だが不完全だからこそ、次を描きたくなる。記憶も同じじゃ。完璧でなくとも、そこに心があるから美しい」
「心?」虚無の収集家は嘲笑した。「心こそが記憶を歪める元凶だ。感情が事実を捻じ曲げ、真実を覆い隠す」
エジソン明治が腕を組んだ。
「しかし、心なき記録は機械と同じです。私は東西の技術を融合させてきましたが、最も大切なのは『なぜそれを作るのか』という想いでした。完璧な記録より、不完全でも愛のある記憶の方が価値があるのではないでしょうか」
「愛、だと?」
虚無の収集家の声に、初めて激しい感情が込められた。
「愛こそが全ての元凶だ! 愛があるから記憶は歪む。愛があるから真実は隠される。愛があるから、人は現実を受け入れられなくなる!」
彼の周囲の闇が激しく渦巻き、図書館全体を覆い始めた。しかし陽菜は怯まなかった。
「あなたは、その人を愛していたから苦しんでいるんですね」
「黙れ!」
虚無の収集家から放たれた闇の波動が陽菜を襲う。しかし時結印の光が彼女を包み、攻撃を跳ね返した。
「苦しみから逃れるために、全てを無にしようとしている。でも、それでは何も解決しません」
「解決など求めていない! ただ、この痛みを終わらせたいだけだ!」
「痛みを終わらせるのは忘却だけではありません」陽菜は静かに言った。「受け入れることでも、痛みは和らぎます」
「受け入れる、だと? 歪められ、汚された記憶を?」
「歪められても、その奥にあった真実の想いまでは変わりません。記憶は不完全でも、愛したその心は本物だったはずです」
虚無の収集家が動きを止めた。その表情に、困惑が浮かんでいる。
「本物、だと? だが、その愛は報われなかった。理解されなかった。最後には忘れ去られた」
「忘れ去られても、あなたが覚えていれば愛は生きています。そして今、私たちもその愛の存在を知りました。もう、あなた一人ではありません」
図書館に、深い静寂が訪れた。
虚無の収集家は立ち尽くし、何かと格闘するように表情を歪めていた。長い年月をかけて築き上げてきた虚無への信念と、心の奥底に眠り続けていた愛への想いが、激しくぶつかり合っているのが見て取れた。
「君たちには、分からない」彼は震え声で呟いた。「この痛みの深さが、分からない」
「分からないかもしれません」陽菜は素直に答えた。「でも、分かろうとすることはできます。そして、一緒にその痛みを背負うこともできます」
虚無の収集家が顔を上げる。その瞳に、初めて人間らしい光が宿っていた。
「君は、私の敵のはずだ。なぜそこまで――」
「あなたも、記憶を愛した人だから」
陽菜の言葉が図書館に響く。その瞬間、時結印の光がより強く輝き、虚無の収集家を包み込んだ。
「これは、何だ?」
「全時代の記憶の光です。あなたが消そうとしたすべての想いが、ここにあります。きっと、あの人の本当の記憶も」
光の中で、虚無の収集家の表情が大きく変わった。そこに見えたのは、想いを理解してくれる存在を長い間求め続けていた、一人の人間の姿だった。
しかし次の瞬間、彼は激しく頭を振った。
「いや、だめだ。もう遅すぎる。私は数え切れない記憶を破壊してしまった。もう、後戻りはできない」
再び闇が彼を包み始める。陽菜は慌てて手を伸ばした。
「そんなことはありません! 記憶は、愛があれば蘇ります。一緒に――」
「君たちだけでも、記憶を守り抜くがいい」
虚無の収集家の姿が闇の中に消えていく。しかしその瞬間、彼の口元に僅かな笑みが浮かんでいるのを、陽菜は見逃さなかった。
「待って!」
陽菜の叫びが図書館に響いた時、すべての光と闇が激突し、まばゆい閃光が空間を満たした。
そして――静寂。
陽菜たち四人は、変わり果てた図書館の中に立っていた。