時空操典の力が陽菜の体を駆け抜けた瞬間、図書館全体が震動した。禁断書庫から放たれる蒼い光が、時層図書館の無数の回廊を照らし出す。だが、その光は次第に不安定になり、明滅を繰り返していた。
「陽菜!」
晴明の声が響くが、陽菜の姿は半透明になっている。時空操典の代償が、確実に彼女の存在を削り取っているのだ。
「大丈夫…まだ、大丈夫よ」
陽菜は微笑んだが、その声は遠くから聞こえてくるかのように頼りない。
その時、図書館の向こう側から、これまでとは比較にならない巨大な暗黒の波動が押し寄せてきた。虚無の収集家の気配だった。だが、今度は異なっていた。一箇所からではなく、あらゆる方向から、あらゆる時代から同時に感じられる。
「これは…」
北斎が筆を構えながら呟いた。彼の鋭敏な感覚が、空間の異常を察知している。
「全時代同時攻撃じゃ」
エジソン明治が発明品の計器を確認しながら、青ざめた顔で報告した。
「平安、鎌倉、室町、江戸、明治、大正、昭和…すべての時代の扉から、同時に虚無の侵食が始まっている」
図書館の各所に設置された時代の扉が、不吉な光を放ち始めた。それぞれの扉の向こうから、時喰いの群れが溢れ出してくる。だが、今度の時喰いは今までとは違っていた。各時代の特色を帯び、より強力で、より凶暴になっている。
平安の扉からは、陰陽道の符を喰い荒らす漆黒の式神のような時喰い。鎌倉の扉からは、武士の魂を呑み込む甲冑を纏った時喰い。江戸の扉からは、町人文化を破壊する化け物じみた時喰いたち。
「虚無の収集家め、ついに本気を出してきたか」
晴明が式神を展開しながら言った。だが、その表情は厳しい。これまでの戦いとは規模が違いすぎる。
突如、図書館の中央広場に巨大な影が現れた。虚無の収集家その人だった。だが、その姿は以前よりもはるかに巨大で、威圧的だった。全身を覆う暗黒のローブは時空の歪みそのもののように揺らめき、顔は相変わらず見えないが、そこから放たれる圧迫感は空気を重くした。
「時層図書館の守人よ」
その声は、あらゆる時代から同時に響いてきた。
「お前たちの抵抗も、ここまでだ。私は全時代を同時に攻撃する。過去も現在も未来も、すべてを無に帰す。もはや、お前たちに防ぎきることはできまい」
虚無の収集家が両腕を広げると、図書館全体が激しく揺れた。各時代の扉から侵入してくる時喰いの数が、爆発的に増加する。
「くそっ、数が多すぎる!」
北斎が筆を走らせ、時空の壁を描いて時喰いを防ごうとするが、次々と破られてしまう。
「わしの発明品だけでは、この規模の攻撃は防げん!」
エジソン明治の時空安定装置も、過負荷で煙を上げ始めた。
晴明は必死に式神を操り、平安の扉から押し寄せる時喰いと戦っているが、その額には汗が浮かんでいる。
「これでは…各時代の守りが追いつかない」
図書館の各所から、悲鳴のような音が響いてきた。時代の境界線が崩壊し始めているのだ。平安時代の雅な装束を着た人々と江戸時代の町人が同じ空間に現れ、混乱している。明治の蒸気機関と現代の電子機器が融合して異様な光を放っている。
「時空が…混乱している」
陽菜が時空操典を握りしめながら呟いた。彼女の存在はさらに薄くなっているが、その瞳には諦めの色はない。
虚無の収集家の笑い声が、歪んだ時空に響く。
「見るがいい。時の流れが乱れ、歴史が混ざり合っている。これこそが、私の望む無秩序の始まりだ。すべてが混沌となり、やがて無に収束する」
実際、図書館の状況は深刻だった。時代の扉を通じて、各時代に住む人々の記憶も影響を受け始めている。平安時代では貴族たちが突然現代の記憶に混乱し、江戸時代では職人たちが明治の知識に戸惑っている。
「このままでは、全時代の人々の記憶が破綻してしまう」
晴明が険しい表情で言った。
その時、図書館の最奥から、新たな気配が現れた。歴代の守人たちの魂だった。陽菜の祖母、その前の世代、さらにその前の世代…時層図書館を守り続けてきた守人たちの魂が、半透明の姿で現れた。
「陽菜…」
祖母の魂が、薄れゆく陽菜に向かって手を伸ばした。
「時空操典の力は強大だが、一人で扱うには重すぎる。私たちの力も合わせなさい」
歴代の守人たちが陽菜を取り囲み、彼らの魂の力が時空操典に注がれる。陽菜の存在が一時的に安定した。
「でも、これでも足りない」
陽菜が唇を噛んだ。虚無の収集家の攻撃は、想像を超える規模だった。
「全時代を同時に守るなんて…」
その瞬間、陽菜の心に一つのアイデアが浮かんだ。危険極まりない方法だったが、これしかない。
「みんな!」
陽菜が振り返った。
「時空操典の力を、各時代に分散させる。私一人では無理でも、みんなの力を借りれば…」
「陽菜、それは無謀すぎる」
晴明が反対した。
「時空操典の力を分散させれば、お前の負担は軽くなるが、制御が困難になる。下手をすれば、時空そのものが崩壊する」
「でも、このままじゃ全時代が虚無に飲み込まれてしまう」
陽菜の決意は固かった。
虚無の収集家が、さらに強力な攻撃を開始した。各時代の扉から放たれる暗黒の波が、図書館の中枢に向かって収束していく。
「時よ、止まれ。記憶よ、消えよ。すべては無に帰すのだ」
その声と共に、図書館全体を巻き込む巨大な時空の嵐が巻き起こった。本棚が宙に舞い上がり、書籍のページが虚空に舞い散る。各時代の境界線が完全に崩壊し、過去と現在と未来が入り乱れた。
「うわあああああ!」
北斎が嵐に巻き込まれそうになりながら、必死に筆で自分を支えた。
「こいつは、とんでもねえ嵐だ!」
エジソン明治の発明品が次々と故障し、晴明の式神も嵐に散らされていく。
陽菜は時空操典を高く掲げた。もはや、躊躇している時間はない。
「時空操典よ…私たちに力を貸して」
時空操典が眩い光を放った瞬間、陽菜の存在が限界まで薄くなった。だが、彼女は最後の力を振り絞って叫んだ。
「みんな、私の力を受け取って!各時代を…各時代を守って!」
時空の嵐が、さらに激しさを増していく。