時層図書館の中央広場に、静寂が降りていた。蒼が持参した時空安定化装置が淡い光を放ち、無数の本棚が立ち並ぶ幻想的な空間を照らしている。陽菜は仲間たちと輪になって座り、これまでに集めた情報を整理していた。

「虚無の収集家の正体が分かったとはいえ、対話が可能かどうかは別問題ですね」

 晴明が冷静な口調で言うと、北斎が筆を回しながら頷いた。

「悲しみが深すぎると、人は自分の声すら聞こえなくなっちまうからな。まして、これだけ長い間一人でいたとなると」

「だからこそ、諦めるわけにはいきません」

 陽菜の声に力がこもった。蒼が持ってきた未来の情報により、この戦いの意味がより重大になっていた。ここで失敗すれば、未来永劫にわたって記憶の消失が続くことになる。

「時空安定化装置の準備は完了している。あとは相手が現れるのを待つだけだ」

 エジソン明治が装置の調整をしながら呟いた。その時、図書館全体が微かに震動した。

 蒼の表情が緊張に引き締まった。

「来ます。この感覚、間違いありません」

 震動は次第に大きくなり、本棚に並ぶ無数の書物がざわめき始めた。時代の扉から吹く風が冷たくなり、空気に重苦しい圧迫感が漂い始める。

 そして、中央広場の空間が歪み始めた。

 最初は小さなさざ波のような歪みだったが、それは瞬く間に拡大していく。歪みの中心から、深い闇が滲み出してきた。それは単なる暗闇ではない。光を飲み込み、音を消し、存在そのものを否定するような、完全な無の色だった。

「みんな、下がって!」

 陽菜が叫ぶと同時に、歪みの中から姿が現れた。

 虚無の収集家。

 それは人の形をしていたが、同時に人ではないものだった。輪郭は曖昧で、まるで霧のように揺らめいている。顔があるはずの場所には、吸い込まれそうな深い虚無があった。全身から立ち上る気配は、この世のすべてを無に帰そうとする強烈な意志に満ちている。

「ああ、やっと見つけた」

 虚無の収集家の声が響いた。それは男性とも女性ともつかない、あらゆる感情が抜け落ちた空虚な音だった。

「時層図書館の守人たち。そして、記憶という名の苦痛を世界に撒き散らす者たち」

「待ってください」

 陽菜が一歩前に出た。心臓が激しく打っているが、声は震えていない。

「私たちはあなたと戦うつもりはありません。話し合いましょう。あなたの痛みを理解したいのです」

 虚無の収集家は陽菜を見つめた。その視線に触れた瞬間、陽菜の全身に凍りつくような寒さが走った。

「理解? 痛み?」

 虚無の収集家が笑った。それは笑いというより、絶望の響きだった。

「小娘よ、お前に何が理解できるというのか。千年の孤独を、万年の絶望を、お前が理解できるとでも思うのか」

「それでも、試させてください」

 陽菜は震える足を踏みしめて、さらに一歩前に出た。

「記憶は確かに痛みを伴います。でも同時に、喜びや愛も運んでくれる。それを完全に消してしまうのは」

「黙れ」

 虚無の収集家が手を上げた瞬間、陽菜の言葉が途切れた。いや、言葉だけではない。陽菜の口の動きそのものが止まってしまった。

「記憶など、この世に不要なものだ。痛みも、喜びも、愛も、憎しみも、すべて無意味だ。完全な無こそが、真の平安なのだ」

 虚無の収集家の周囲の空間が波打った。その波紋が広がるたびに、近くにあった本が灰のように崩れ落ちていく。

「陽菜!」

 晴明が駆け寄ろうとしたが、その動きも突然止まった。エジソン明治も、北斎も、蒼も、全員がまるで時間が止まったかのように動けなくなっている。

 陽菜だけが、かろうじて意識を保っていた。守人の血筋ゆえの抵抗力だろうか。しかし、それも限界に近い。

「これが現実だ、小さな守人よ」

 虚無の収集家が陽菜に近づいてきた。その足音は無音だったが、一歩ごとに図書館の本棚が消えていく。

「お前たちがどれほど美しい理想を語ろうと、どれほど記憶の価値を説こうと、私の力の前では無意味だ。見るがいい、お前の大切な仲間たちの姿を」

 陽菜が振り返ると、晴明たちの姿が薄くなり始めていた。まるで存在そのものが消されようとしているかのように。

「やめて」

 陽菜の声はかすれていた。全身の力が抜けていき、立っているのがやっとの状態だった。

「やめて、お願い」

「これが対話の結果だ」

 虚無の収集家の声に、僅かな感情が混じった。それは悲しみだった。

「私もかつては信じていた。誰かと分かり合えると、痛みを分かち合えると。だが結果はいつも同じだ。裏切り、別れ、そして一人残される絶望」

 陽菜の膝が崩れそうになった。虚無の収集家の力は圧倒的で、抗う術がない。これまでの戦いとは次元が違った。

「お前たちも同じだ。今は美しい言葉を並べているが、いずれは私を理解することなど不可能だと悟り、力で押さえつけようとするだろう。そうなる前に、すべてを終わらせてやる」

 虚無の収集家が手を広げると、図書館全体を包む暗い波動が発生した。本棚が次々と消失し、時代の扉も閉ざされ始めた。

 陽菜は膝をついた。もはや立っていることすらできない。仲間たちの姿はほとんど透明になり、いつ完全に消えてもおかしくない状態だった。

「これで終わりだ」

 虚無の収集家の宣言と共に、図書館に完全な静寂が降りた。

 陽菜の意識が薄れていく中で、一つの想いが心に浮かんだ。これまでの戦いは、すべて無駄だったのだろうか。仲間たちと築いた絆も、記憶を守ろうとした想いも、すべて意味のないことだったのだろうか。

 虚無の収集家の力の前に、時層図書館の守人たちは為す術もなく敗北した。陽菜の視界が暗くなる直前、彼女は遠くから微かな光を見た気がした。しかし、それが希望の光なのか、それとも最後の幻なのかは、もはや分からなかった。

 時層図書館に、深い闇が降りていた。

時層図書館の守人たち

21

虚無の収集家現る

織部 時花

2026-04-10

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第21話 虚無の収集家現る - 時層図書館の守人たち | 福神漬出版